ゾンビとしての写真

今日も大学。会議のための会議。

■リビングデッドとしての写真
 昨日のフィリップ・ヘイワード編の論集に所収論文ウィリス「デジタル化と写真の生ける死」を読む。邦訳するなら「リビング・デッドとしてのデジタル写真」のほうがいいとは思う。写真はすでにとっくの昔に死んでいる。ところがそれと同じ外観をしたいかにも写真のようなものが残存し、いたるところに溢れている。しかしそれは写真の写真、シミュレーションのシミュレーションであり、まったく別の市場的論理や経済的、政治的力学に貫かれるようになっている、一言で言えば、こういう主張の論文。
 この論文の論点は3つ。第一に写真/ビデオ/映画/コンピュータにより制作されたイメージという、以前は相互に区別されていた領野の境界が無効になり、相互が相互に混ざり合う形になるということ、第二にそうした状況のなかでは、最終的な産物よりもそれを生み出す手段の自動運動が加速し、起源も終着点もない先送りと送り返しの回路が生じているということ、第三に、イメージと現実という対立や区別ではなく、むしろ物質性と非物質性という区別がとりあえずの概念的ツールになるということ。これは簡潔な整理。

 さらにもう一本。
 今度はリスター編の論集に所収のケヴィン・ロビンス「イメージはそれでもなお私たちを感動させるのか?」を読む。ざっと読んだが、デジタル技術を革命的なものとして受容する言説に潜んでいる進歩主義や合理主義に異議を申し立て、その際、『啓蒙の弁証法』を参照して、非歴史的に想定されているデジタル・イメージ技術の議論の方向を別の方向へと逸らし、抑圧された身体的な契機に着目すべきだ(これがタイトルの由縁)、という主張。
 そうした議論のために挙げられるのが、まずバッチェンなどのフーコー的な考古学方法――しかしその有効性は限定したものではあると言われる――。第二に、複数のイメージメディアの重ね書きされた領野を踏査する方法。その具体例として1990年にポンピドゥーで開催された『イマージュの通路=通過』という展覧会。これは調べてみよう。
 全体的に施政方針演説みたいであった。議論の割にイメージが抽象的なのが難。

 もう少しリスターの議論を読んでみる。それはまた明日。