マノヴィッチ その2


■マノヴィッチ その2

 (2)情報量の逆説
 両者の差異として頻繁に引き合いに出されるもうひとつの観点は情報量である。ミッチェルによれば、伝統的写真はその連続的なトーンの中に無限の量の情報を有しているが、デジタル写真は限定され、固定された情報量しか有しないという。理論的にはそうかもしれない。しかし実際には、この差異はそれほど大きなものにはならない。というのも、現在の技術では伝統的写真よりもずっと高解像度でディテイルに富んだイメージや対象をスキャンすることができるからである。これがもうひとつの逆説になる。

 (3)通常の写真という先入観
 ミッチェルはさらに、第三の区別として、改変可能性をあげている。もちろん彼もマニピュレーションを施された写真の歴史は知ってはいる、しかし、これにマニピュレートのないストレートな写真を「通常の」写真実践を対置し、これを基礎に議論を展開する。だから彼は、伝統的な通常の写真とデジタル写真は大きく異なるのだ、と主張することができる。
 しかし、そもそも「ストレートな通常の写真」という概念が問題含みである。ほとんどの写真は修整や介入を経ている。こうした写真の無垢さがデジタルイメージによって破壊されるというミッチェルの主張は即却下されるだろう。むしろ、ストレートな写真とは、写真以前から存在したり(しなかったりする)視覚文化の伝統や文法のレパートリーにすぎないのである。それは他の視覚的テクノロジーやメディアに広がっている文法にすぎない。
 つまり重要なのはむしろ、写真が、出来事の証明としてなのか、宣伝広告としてなのか、ある事実的非事実的テクストの挿図としてなのかというように、その政治的文脈と用法に依存しているということなのである。 

・リアルな、あまりにもリアルな
 さて、もうひとつの逆説が提起されて、この論は締めくくられる。デジタルイメージ、とくに3DのCGイメージが一般には伝統的な写真ほどには描写が正確ではないと見なされている。しかし、これがこれまでの手続きと同じように逆転させられるのである。
 マノヴィッチによれば、実はそうではない。合成的イメージの方があまりにもリアルすぎるのだというのである。もう少し筋を辿ってみよう。
 まずCGが再現しているものは、実は現実ではない、むしろレンズが見た現実、写真的現実、映画的現実である。つまりそうした表象をもって現実の表象であると見なす見方、フォトリアリズムとしてのリアリズム、これをデジタルイメージは目標にしている。ただし、デジタルイメージはそのディテイルの過剰、不自然な明瞭さゆえに、映画の表象と並置するとその齟齬が際立ってしまう。そこでCGのイメージは逆に劣化させられる必要がある。ノイズやぼかしの挿入、しかしそれによって達成されるのは、私たちの現実についての劣った表象ではなく、もうひとつの別の現実の表象の表象なのである。これがこのセクションの見出しの「あまりにもリアルな」の意味である。

 マノヴィッチの議論で面白いのは、ミッチェルのあまりにも単純である二分法を、デジタルイメージの実際をてこにことごとく足払いするところでもあるが、それに加えて、写真自体が現実を編集してきたメディアであり、それを二重化した記号の記号がデジタル・イメージだという主張だろう。
 実際、伝統的写真とデジタル写真という対立よりも、むしろこのようにどちらをも包含する写真的なものの広がりとして現在の写真現象を捉える見方のほうがよほど使いではありそうにも思える。
 マノヴィッチはこれで終了。