マノヴィッチ その1


Miroslav Tichýについて調べる。このページのカメラには笑える。
これは都築氏が現代写真について質問された時にさらっと挙げた写真家。
これも現代写真。

■日本記号学

のポスターが届きました。サイトはここ。写真の語りにくさについて騙ることになっています。
お時間あるひとはよろしく。


■マノヴィッチ1
 「諸反応」シリーズは一休みして、マノヴィッチのデジタル写真論「デジタル写真の逆説」を紹介というかまとめておく。
・デジタル革命?
 彼はデジタル革命という考えを認めるか認めないかではなく、そのイメージの論理をパラドキシカルなものとして捉えてはどうかと提案する。つまりデジタル・イメージは従来の表象モードと徹底して切断しながら、同時にそうしたモードを強化しているのである、彼はこう考えるのである。その逆説的論理は、デジタルイメージと伝統的な写真に関して口にされる次の二つの問いの検討から始められる(これはミッチェルの主張を取り出したものでもある)。ひとつが、両者の間の物理的な差異についての問い、もうひとつがコンピュータの生み出す合成的イメージのリアリズムについての問いである。

・デジタル写真は存在しない
 まず挑発的な見出しをマノヴィッチはつけてみる。ここでは写真ではなくわかりやすく映画の例から話が始まる。例えば『ターミネーター2』や『ジュラシック・パーク』を挙げるまでもなく、映画において、その基本となっていた物質的な構成要素、基本的な技術をデジタル技術は徹底的に変容させたと言われている。ここでは映画(や写真にはあった)撮影と編集の差異は不明瞭になる。
 しかし奇妙なことに、映画制作技術が消滅しかけているように見えて、その反面で映画的なコードはデジタル視覚文化の中で重要な役割を占めるようになっている。パソコンにインストールされている映像編集ソフトは、そのソフト名(ディレクターやプレミア)、ムービー・メイキング、ムービー・ヴューイングというメタファーを与えられ、それどころか映画的な文法に基づいてデジタルイメージは構成されている。他のメディアを挙げてもいい(例えばゲームにおける視点やカメラワーク)。フィルムは消滅するかもしれないが、映画は消滅するどころかドミナントなものになっている。
 映画、そして写真の見かけ――粒子の肌理が残り、柔らかく、いくぶんぼやけた外観――は、デジタル・イメージの高解像度の、あまりにも完璧なイメージの外見とは対照的であり、これがデジタル・イメージのなかで再現されるフェティッシュになっている。人間的でなじみのあるかつての映像メディアの外見をノスタルジアとともに反復するデジタル・イメージ。
 これがまずデジタルイメージの第一の逆説なのである。
 とはいえ、先に挙げた両者の間の物理的な差異について検討はしていなかった。ミッチェルのデジタル・イメージ革命の言説の要は次のようなものである。それは、デジタルイメージと写真との物理的差異が、両者の論理的、そして文化的差異を引き起こすというものである。しかしマノヴィッチが言うには、デジタルイメージとその用法を具に省みるなら、そんな差異は消え去ってしまう。だから「デジタル写真は単純に、存在していない」のである。
 
 (1)話を元に戻そう。まず両者の第一の差異は、アナログ写真が連続的な像であるがゆえに劣化なしに複製することが不可能であるのに対して、デジタルイメージは劣化なしに複製可能である点だ。これがミッチェルの主張である。これは理論的には正しい、しかしデジタル技術の実際は、その情報量ゆえに、必然的にコピーにともない圧縮や情報の削除を引き起こす。必ずしもミッチェルの言い分はあてはまらない。
 たしかに技術の進展により、こうした情報の消失はなくなるだろうという反論もある。しかし、そのときにはむしろ圧縮が視覚的表象のための基準になっているのではないか。あまりにも完全でありながらその欠点(圧縮)が基礎になってしまう。それは、データの喪失、劣化、ノイズであり、しかも伝統的な写真のノイズよりも強力でありさえするノイズなのである。今日はここまで。