監視映画論1


下柳を見るのか、それとも藤原一家を見るのか。
関西人にはとても大きな二者択一だった。
ザッピングすればいいだけだけど。

■監視映画論1
 授業用に監視映像論をさくさくと訳す。
 以前から時間をみて紹介しようと考えていた論文、それがレヴィン「時間的インデックスのレトリック――監視的ナレーションと「リアルタイム」の映画――」。
 冒頭はオーウェルの『1984』で描かれた近未来の姿、その最悪の悪夢の実現としての現在がさまざまな事象を例に描き出される。監視カメラ(CCTV)による監視や、データ監視(dataveillance)によるデータ・トラッキング・システムを挙げるまでもなく、監視は日常生活の一部になっている云々。軍事利用から商業的利用へとシフトしたエシュロンのプロジェクト、一見すると無害に思える交通監視システムの政治的利用、携帯電話による追尾システム、イコノス衛星画像サービスの高解像度の映像、網膜スキャンと監視ビデオシステムの結合――こうした悪夢を描き出した一例として『ガタカ』が挙げられる――
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9・11以降に生じた監視システムの批判的検討よりも歓迎的な受け入れへの変化、監視の規制についての各国の温度差(ドイツとデンマークでは規制がきついのに対して、英国や合衆国では比較的容易に商業的目的に利用されている等)、こうした事情が前半では述べられる。 しかし、こうした監視の政治学は、ある意味では文化的生産の一領野、実際の監視ではないもののそれをめぐる別の闘技場を作り出している。ハイカルチャーかローカルチャーかを問わず、コミックであろうと映画であろうと、文化的所産において監視のレトリックは増大している。そしてそうした領野が監視についての私たちの一般的な姿勢に影響作用を及ぼしていることは明らかなのである。この論文はそうした領野全体をカバーしはしないものの、最近の映画の展開、とくに監視を映画においてどのように機能させているのかという点に焦点を合わせるという。
 そもそも映画と監視の関係はその創生期以来のものであり、ひとびとを追尾したり追跡したりと監視の小さなドラマをめぐってその歴史は紡がれてきたと言っても過言ではない――リュミエールの『工場の出口』は工場主が被雇用者を監視する映画でもある――。
 あるいは監獄について記録した最良のドキュメントが、ハリウッド映画によるロケ撮影であるという事例も多い――ジェイムズ・スチュワート主演『Call Northside 777』ではパノプティコン型をしたイリノイ州立刑務所が撮影されている――。
 もちろん、フリッツ・ラングのマブゼやヒッチコックの裏窓、パウエルのピーピング・トムなど、監視の物語世界内にもちこんでいる洗練された例は多数ある。なおかつそうした作品では、主題としての監視(映画内カメラ、映画内ヴィデオ等による視)を超えて、映画そのもののもつ視覚的快楽嗜好〔scopophilia〕的欲望とのあいだの揺れ動きが示されてもいる。もちろんこの二つの視の階層は、その肌理によって区別可能なものであった。
 ところが、このように従来は明確に存在した、物語世界内の監視と物語世界外の監視(監視的語り)との区別が先の映画の後、数十年に渡って掘り崩され、1990年代後半にいたると、両者の区別がつかなくなるような映画が増大している、レヴィンはこう述べるのである。
 監視の主題的な扱いから、監視の構造的な扱いへの推移、これが顕著に現われているのが、古典的な監視映画でもあるコッポラ『カンバセーション』の最後のシークエンスである。
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(つづく)