映画・TV・映画内TV

■監視映画論7
で『トゥルーマン・ショー』。
 これはもう講義でもしつこく見せたのでレヴィンの議論のみ追っておく。
 この映画、監視している様子を中継するTV番組(リアリティTV)のその後の流行の淵源にもなっている作品。そして、それは、監視が主題としても構造としても強く記され、監視の諸問題がどのように映画を変容させているかを示す顕著な例になっているという。監視的な形式がこれほどまでに前景化し、物語世界内に入り込んでしまった例もない。もちろん撮影スタジオの規模は、上記のリアリティーTVのそれと較べようもなく巨大であるし、何よりも、主人公が監視の事実を知っているか否かの違いは大きい。
 もちろん、この映画は、古典的な窃視症的な快楽を与える事例にすぎないと片づけてしまうこともできるだろう。たしかに、観客の位置は、映画内監視番組というスペクタクルを見る視聴者の位置――あるいは調整室のディレクター(クリストという名前)の位置――に置かれる。怖ろしいまでに両者の反応は一致する。
 レヴィンが言うには、この映画ではそれにくわえて新たな特徴のひとつとして、監視を顕示しつつ監視を抑制するという二種類の方法を採っているという。つまり、映画内の視聴者=観客が観る映像には容易に読み取り可能な監視の印が刻印されており、そうすることで読みとることのできない不可視の、統御不可能な監視への不安を緩和する、観客は安心して制限された監視環境のなかで(映画内)番組を視聴する。
 第二に、監視のレトリックが独特な動員のされかたをしている。ライブだということである。生放送であるということ、それは、映画内でTV映像が「記録された」映像として用いられていた事例とは決定的に異なる特徴である。つまり(TV)映像の現実指示的な価値が失墜した現在、記録ではなくリアルタイムという用法が要請されているのである。
 写真への信頼をかつてはその機械的、化学的条件、その人間の操作の空間的な非介入が支えていたとすれば(空間的インデックス)、今度はリアルタイムの監視映像の放映が、その時間的インデックス性が映像への信頼を支えているというのである。
 そしてここで参照されるのが、――数日前のコメント欄でも紹介された――ドーンのTV論である。これはまた翌日にでも。

…もちろん、この議論を読んでいて疑問点はある。
トゥルーマンショー』で面白いのは、トゥルーマンの横に映りこもうとしてスタジオに闖入してくる視聴者たちの存在である。また俳優たちの、観られるためのみの自動化された断片的な動作も顕著である。制限された監視的環境の距離を置いた享受がこの映画の快楽だという議論は、当てはまらないのではないか。
 もちろんそれは、窃視症的快楽に対して露出症的快楽とまとめることもできない。むしろトゥルーマンという主人公以外の人々の、明らかに観られることが分かっていて、その視線から目を伏せて見られる静かなとぎれとぎれの快楽が、この映画の前景化した監視的道具立ての背後にあるという気がする。しかもこの伏目的視線の拡散は、必ずしもビッグブラザー的な道具立ては必要とはしない。 
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■TV論
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