著作権シンポ感想

『盗聴 カンバセーション』のサントラが届く。この映画、実は音も凝っている。サントラなのだから盗聴時の音も入れてもよかった。

著作権シンポ
 昨日の芸術学関連学会シンポの感想。
 パネリストがそれぞれ著者と著作/作者と作品という問題設定にたいして、西洋美術史における18世紀の複製版画、「ワールド」ミュージックにおけるヨーロッパ近代の外と内、現在の映像および戦後の映画、その共有の問題について、というように、三つの外と内について簡潔に議論をし、その後に名和氏が著作権法の歴史の経緯を外から整理し、そのうえでディスカッサントがこれまた簡潔に見事に問題点を切り取ってまとめる、、、というものだった。企画の意図が参加者全員に伝わっていてとてもまとまった議論になっていた。

 話を聴いていて今後の議論の対象になると思ったのは次の三点。

 まず、美学美術史など、美的作品と作者を扱ってきた学問的言説が、その前提にしている問題構成と、その外側にある著書と著者についての現実的論理が、一面では完全に分離切断されている(両者はまったく別物である)、しかしそれにもかかわらず、両者が捩れて結びついているという奇妙な力学があるということ。これを増田氏はクラインの壷のようにとも言っていた。
 たとえば、前近代まで含めた創造性とか創作とか作者とかという概念の圏域の広さや多義性をおとしどころにする議論を立てる、すると、その論の一部が圧縮されて外部である著作権法の論理に転用され、その議論の支えになる。
 次に、こうした流用や引用や癒着の捩れた論理を、美学美術史の言説の立場から、どのように身を引き離しつつ、あるいは身をいれつつ対処するのかという問題がある。ひとつには、作品作者概念の多様性をツールにして、著作をめぐる法的事例を議論するという方法がある。あるいは、美学の言説編成の力点となってきた作品作者概念をときほぐしながら、同時にこれまで外部や他者と見なされていた要素を考察に加えていくという方法もある。これもまっとうな対処法ではあると思う。
 しかしその時に、とくに後者の対処の仕方についてとても気になってしまうのは、岡田氏が簡潔にまとめたように、西欧白人男性主体を中心に形成されてきた著者/著作概念の批判を行い、同概念の多様性を言祝ぐ言説にいきつくものの、そしてその際には西欧近代外部の主体を言説のなかに代入するものの、アイデンティティ・ポリティクスのせめぎ合いの反復に行き着いてしまう、、、ということ。
 この件を述べる際、岡田氏は『アルスとビオス』で書いたセキュリティの問題にも触れていた。他者との関係性というものが現在変化している。そこで免疫性の問題が等々…。たしかにその通りだとは思う。また、増田氏は、かつてポストモダン的な言説をつむぎ、シミュレーションを主張していた某批評家が、最近の盗作問題に対しておそろしく硬直的、反動的な姿勢を採っていたという話を披露していた、この不可解なポストモダン性の話もよく分かる。

 問題は、ポストモダン的な多様性を可能にしたのはセキュリティで言われた他者性の排除の力学だということ、だから増田氏の挙げる例も至極当然の帰結なのだと思う。
 そしてさらに考えれば、美や芸術を論じる問題構成にも、そうした排除によく似た排除や遮断の構造がある。――シンポジウムに参加したひとの大部分の意見はそうではなかったとは思うが――、この著作権の話は、容易に作者の多様性、創造性の豊かさなどに回収されて再び閉じてしまいかねない。それが、どこかしらポストモダンが最初に流行した時期のなりゆきの反復に見えなくもない。外部を遮断し内の多様性を賞賛する。
 そうかといって、単調なアイデンティティ・ポリティクスやその袋小路に行き着くだけではない議論、そのためには何が必要なのか、それがシンポジウムを聞いた後に抱いた感想だった。
 そのひとつ、現在の作品流通にかかわっている工学的技術、メディアの問題は、もう少し討論されてもいいような気もする――もちろん当日のパネリストの話にも複製技術の話は織り込まれてはいたし、ディスカッサントがまとめてはいたのであるが。そしてこれは写真映画関連でこちらが引き受けて考えなければならない問題なのだろうと思う。
 監視映像論に手をつけたのはたぶんそういうこともある。
 全体的に、コメンテイターとディスカッサントの導入によって断然面白い催しだったことは確かだった。

 以上、横槍の感想。