監視映像論8

■セキュリティCM
も集めている。セコムはここ
野獣編とマタドール編は今のセキュリティ意識の内と外を明瞭に示しているような気がする。

■監視映像論8
 数日前、この欄で紹介してもらった監視写真の話を読む。d.n.氏の挙げた次の論。
倉石氏「監視の現在とウォーカー・エヴァンズの「超越」」。論集自体はこれ。
 写真との対話
 議論の流れは、監視の現在による撮影(ストリート・スナップ)の困難さから、ウォーカー・エヴァンズによる地下鉄での「盗撮」プロジェクトへと遡る。そこに見いだされるのは、次のような問題である。少しだけ引用しておく。

 決して暴力的であることを免れない、他者を凝視する視線の権利行使が同時に、自己への倫理的審問を責務として要求するという厳粛な互換の場は、写真の撮影という局面を一類型として想定されうる。このモデルの具体性が失効し、「見つめ、覗き、耳をそばだて、盗み聴くのだ」という「自己への指令」を含まずになされる他者了解は、倫理的深度と陰翳を欠いた、実に白々しい抽象性を帯びざるを得ない。

 都市から撮影者が消え、ストリート・スナップが消え、その代わり、都市には不在の監視カメラによって撮影される者のみが存在するようになり、その画像を誰も確認することもない、そうしたグロテスクな世界。それは、かつての機械の眼とは対照的なありかたである。
 カメラという機械の眼によって撮影者が自らの主体性を解体すると同時に、(非)倫理的な凝視によって事物の裸形の表面性を捉え、そうすることで芸術という超越とも記録という超越とも異なる写真的外部へ逸脱することができた。
 先に紹介したPGPでの論に出てくる諸例を補って読むと、よりいっそう分かりやすくなる論考だと思う。

…現在の白々としたパノラマのなかで点として明滅するだけの風景のなかのどこに梃子を見いだすべきなのだろうか。それがこちらが引き受けて考えなければならない問題となるのだろう。
 以上、ようやくメモ。
 ルイス・ボルツとストロイリのカタログを取り寄せてみようと思う。
 後者はカンツ社から出ているこれをひとまず注文。ビデオ作品も見たい。
Beat Streuli: City

■隠された記憶
 以前ここで監視映画のひとつとして紹介してもらった作品。
隠された記憶 [DVD]
 冒頭に出来事が起きる邸宅のやや高めのロングショットから始まる。やけに長い。そのうち巻きもどし早送り一時停止が始まる。ビデオ映像、しかもこれは匿名の第三者がおそらく撮影した映像だということが分かる。通常速度で見ている際、ビデオの映像と映画の映像の差異がほとんどない。したがって、合間に挟み込まれるシーン始まりのショット、そして映画公開時にあれこれ喧伝されたラストショットも同様に、他のシーンの同様のショットと見分けがつかなくなる。さらにはTV番組のショットもここに少しだけ入り込んでくる。このようにして、視線の位置と所在にちょっとした違和感が入りこんでくる。そうした仕掛け。これが伝播して、回想のショットすらも監視的に見えてしまう。
 もう謎解きやこの映画の不快感や賛否双方の映画評はあちこちにあるので、それはそういう論にまかせて、監視的眼差しとか見えすぎることとか、映画と(監視)ビデオとの関係について考えるほうがよいかもしれない。
 厳密にはこの映画の中のビデオ映像は、盗撮映像であるので街頭監視映像や店内監視映像とは異なる。だからそれは、『テルマ&…』や『Hana-bi』の合間に挟み込まれる監視映像とは異なるし、その視線は、監視カメラ映像の誰も見ていない/あまりにも見せすぎている感覚の視線とは異なる視線ではある。
 ただし、その散漫で何事も起きない引いた映像が、監視的な映像と妙に重なってくるように作られている。物語の契機になるのはこのビデオ映像である。それは誰かによって撮影された映像であり、映画の客観的で透明な映像とも異なるし、機械的な監視の映像とも異なる。しかし、話の流れは、出来事を引き起こした特定の主体の意図に差し戻すかに見えながら、途中で、というよりそもそもの最初からそのビデオの撮影者への関心は希薄である。最終的に犯人が誰かは分からないままにしておく。撮影者が誰であるかは、いくつかの手がかりを潜ませて観客に委ねる。
 映画を見る視線をそういう中間に置いてしまう映画。

 ラストショットの学校の出口の映像は、同じ構図のショットが途中でもでてくる。後者はやがて横にパンをしていく映画の客観ショットだと分かる。他方、最後のショットは、同じ構図で始まり延々と固定されたままである。学校の監視映像ならば逆方向に設置されたカメラであるはずなので、これは監視映像ではない、しかもこれは盗撮映像でもない。 
 しかし、映画の普通の終わり方であるはずのロングショットが監視的視線に同化した観客の視線によって走査される。そしてこれを手がかりに犯人探しがあちこちで議論される。同時に見終わった後の後味の悪さが印象として書きつけられる。
 でも本当に気持ちが悪いのは、この、送り返されるあてのないショットの中途な視線だと考えても面白いのかもしれない。
 散漫にすべてを見せてしまう監視的映像を用いて留保する見えない部分をつくってみる。
 映画だから当たり前ではあるが、そういうところがとても映画的な「監視」映画。

以上、もうこの日付から一週間遅れの雑な感想。