監視映画論11


■監視映画論11

『タイム・コード』(2000)がようやく届く。マイク・フィギスのこの作品、ご覧のように四分割された同時的なカットなしロングテイクの画像が延々とつづく。それぞれ同時進行する物語を語る四分割された「リアルタイム」の映像、それが見るものの過剰な監視的映像、その画面の体裁になっている。四台のカメラを1999年11月19日の同時刻からカメラマンが使い始め、四人の主要登場人物の行動を追い続ける。これが90分続く。時折主要登場人物同士が交錯することもある。
 とはいえ、いずれかの画面の音が大きくなり、現在見るべき一画面を指し示してはいる。
 それでも見難いと言えば見難い。しかし、レヴィンが言うには、これがポスト映画的な時間的インデックス性のリアルの現在のひとつの症候だということなのである。
これはまた論じなおす予定。

■朝ハネケ
ようやく『隠された記憶』を見る。これは監視映像(画)論8のところにでも。一言しんどい。そして長い。謎解きはあちこちのブログであがっている。だからしない。
監視映像(映画)としての感想を書いておきました。

■伏し目
 の序と結論を読む。結論部をざっと訳してしまう。序論は諸科学での視覚の言説オンパレードなのでむしろ結論から読んだほうが話は早い。
 ジェイのまとめかたの穏健さはさておき、最後にミシェル・セールのたぶん『五感』で行った議論の参照が面白い。コードとコンピュータに基づく現代のコミュニケーション様式が、パノティコン的理論の支配を終焉させた、メッセージ、コードの時代、これがパン(あるいはヘルメス)によって表象され、パノプティコン的、見られることで認識がなされる時代がパノプテスによって表象させられる。後者は神話の中では、百の眼をもつ巨人であり、ヘルメスによって笛の音によって眠らされ殺される。メッセージの光のごとく迅速な伝達者ヘルメスと光の照明的役割を担う観察するパノプテス。ヘルメスの勝利の時代が現在の情報の時代。
 パノプテス(アーガス)は孔雀の先祖でもあるという。セールによれば、すべてを照らし出す遍在的な神の眼はいまや孔雀の羽の目のごとき柄になっている。何も見ない目の柄、それが今の視覚のあり方になっている。動物園や自然公園で、装飾的に咲き誇る、その柄を誇示するもの、誇示されたもの、それが今のパノプティコン以後のパノプテス的眼差しだと。これは面白い指摘。
 もちろんジェイによれば、でもそうしたシフトは依然として不完全であり、そこに可能性を見る。やはり穏健である。
 個人的にはこの何も見ない目の時代から話がようやく始まるのだと思う。何も見ない遍在する、誇示するけれど誰も気にとめない、動物が揺らぎなき一元的機能のなかで記号として用いる柄。そういう視線や眼差し。

書きかけ