■臨界の感想
 昨日は「イメージ(論)の臨界」を聞きにいく。知人がまるでヤングライオン杯のようだと言っていた催し。たしかにたくさんのヤングライオンが集まっていた。ブラガーリアについての言及、幻影肢ならぬ亡霊肢の心霊コンシャスな話、ブランショドゥルーズの手際よい明快な話、バタイユグラムシ、音楽とイメージについて、はたまた質疑ではベンヤミンとかアウラとかについて、半日で8本の速度ある発表を聞く。軽くへとへとになる密度だった。声をかけていただいた企画者のかたがたには感謝。あと何回か同じ催しもあるようなので、また参加したいと思う。
  
 個別に質問はもうしたのであまり書くこともないのだけれど、いくつか感想。
 前日オクトーバーへの批判をあれこれ読んでいたので、それと関連付ければ、例えばバッチェンの批判によれば、同誌は1970年代末から美術批評の分野で制度的批判を精力的に行い、ポストモダンの諸理論を積極的に利用して自立した芸術についての制度的言説に切り込みをいれ、前衛的芸術の核を批判的に抉り出す活動を展開してきた。
 ところが『1900年以後の芸術』をざっと眺めれば分かるように、オクトーバー派の諸活動は現在行き詰まっているかに思える。なぜなら、承認される美術はすでに制度化された前衛的な諸芸術活動であり、そうした特権的な事例を論じる知的活動として、しかも美術市場の中にすっかりおさまった活動として彼らの現在の理論的場所はあるのかもしれないからである。ヴァナキュラーなものや異なる地域文化への視点、それが欠落しているのも問題だ、、、とバッチェンは述べる。
 そこで第一の感想として。。。
 視覚文化論アンケート特集でのフォスターやクラウスの懸念――視覚文化によって失われるものへの不安――は、昨日のシンポの発表のなかでは少しだけ口にされていた。しかし全体的に、芸術を語る思想や知的活動の位置、それと視覚文化、美術史との関係があまり議論されてはいないという印象が残った。おそらく美術史の枠組みを論者全員があまりにも強く意識しすぎているのではないか。また、昨日とりあげられていたのは、指紋や処刑写真以外、ほとんど高級で前衛的な文化であり、それをともすれば制度的な思想で語ることに終始することになっていたように思う。クラウスらの視覚文化批判への反批判の後のさらなる批判として、各発表を聞きたいとも思った。個人的にはスタッフォード批判がさらに展開されると抜群に面白い話にはなりそうだった。

 第二の感想として、これと結びついてメディア自体の複数性とその歴史性がまだ十分に焦点化されていないような気もする。たしかにイメージの複数性、イメージの時間の複数性、アナクロニズムについて語る発表もあれば、写真と映画と絵画の関係を対象とする発表もあった。ただし一方でイメージを一元化しすぎのきらいがあり、他方で絵画のアナクロニスムによって逆に見えてくるはずのメディア間の摩擦があまり見えてこなかった。メディア環境の変化にたいしてもうすこし引っ掛かりがあっても面白いのではないだろうか。
 第三に、不可視なものはともすれば威嚇や恫喝のニュアンスを帯びて集中化されてしまう。これは各発表者はどう考えているのだろう。
 また蛇足ながら、ベンヤミンについてのあれこれの質疑応答については端的に違うと思った。あるいはもう少し整理して質疑応答したほうがよいと思った。
 もちろんこれらの感想は発表の枠組みの臨界を越えてしまった感想の臨界かもしれないことは断っておきたい。
 とはいえ総じて、自分自身が若手だったならばと羨ましく思うシンポであった。
 でもそれぞれが濃密すぎて一日発表8本は多い、、、と思う。
以上感想まで。
 
■心霊の在り処
さて次の仕事の心霊メディア論文を考えはじめる。
 同時に写経のごときスキャンも再開する。

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