憑依メディアと呪怨パンデミック


■憑かれたメディアに疲れたひとびと
1950年代のTV初期時代の事件簿を読んでいた。
Haunted Media: Electronic Presence from Telegraphy to Television (Console-Ing Passions)
序論の冒頭に紹介されている、TVを「生きている」とみなした結果生じた、今考えれば馬鹿馬鹿しい事件(Frank Walsh、Richard Gaughan、Jerome E.Travers)たちである――三つめのエピソードは、心霊テレビジョン説の具体的な様子が分かる――。しかしそれらは電信からインターネットにいたるまで、私たちがメディアに想定しているある前提の起源になっている。しかもそれに照らせば、数々のメディア論、およびシミュレーション論にいたるまで問題構成を同じくしていることが分かる。
 TVなどのメディアが「生きていること」とは、現前性、直接性、同時性、即時性、いま性、親密性とも言い換えることができる。この、時にオカルト的な生命性の感覚が、電気(電子)メディアのテクノロジーの歴史を――それを語る言説も含めて――理解する際に重要なものになる。このメディアの現前性は一方で諸メディアを貫く深層構造になっている。
 しかし他方で、心霊的なメディアの幻想はそれぞれの歴史的時期におけるそれぞれ社会的な構築物でもある。この本の著者は電気メディアの展開を5つの時期に分けている。19世紀半ばの電信の時期、世紀転換期の無線の時期、1930年代のラジオの時期、1950年代のTVの時期、そして現在のTVとヴァーチャル・リアリティが議論されている時代の5つである。
(つづく)


パンデミック
 次の原稿のために見にいく。
 「この夏」はこれを含めて呪怨ビデオ版、劇場版2、海外劇場版1も見るというのが課題。
呪怨2 劇場版 デラックス版 [DVD]THE JUON -呪怨- ディレクターズ・カットコレクターズ・エディション [DVD]
 作品は、前作を見ていなくても理解できる。海外の設定が入ることを危惧していたが、やはり半ばからが怖く巧く構成されていた。おすすめは机の下に入ったところから電話ボックスの一連の行程。呪怨的『Blow Up』のシーンも「写真」論としてはいい素材。
…といっても見た人にしかわからない。。。冒頭のフライパンのシーンも笑わせてもらう。もうこれは他の点も含めてミクシででも書く。
 残念なのは、劇場公開に間に合わなかったそうなコロンビアピクチュアズの女神(というかコロンビアレディ)の手にしたたいまつが消えて髪に覆われつくすという映像を見ることができなかったこと。
 それはさておき、ホラー映画の劇場では観客の反応も面白かった。皆が一連のホラーシーンのつるべ打ちのあとに「やれやれ」と強張った身を動かすタイミングが同期化する。これは黒沢作品にはなかった受容の側面。
 リンクしておいた映画公式サイトの俊雄くんを探せゲームには笑う。お試しあれ。