憑依されたメディア9


京都タワーにタワーゆるキャラ大集合なのだそうだ。詳しくは、ここを参照。

ちなみにきもかわいいキューピーのコラボレーション・ストラップも話題のようだ。
バカボンのパパ・バージョン]は出前一丁のひとみたいである。違うか。

■透ける写真
と言えばこれを思い出した。
Screening the Body: Tracing Medicine's Visual Culture
そう言えば医学的な証拠としてばかりでなく、さまざまな比喩的文化的イメージともなったのが、このレントゲン夫人の写真だった。聞くと当時骨の美しさを競ってご婦人たちの間で装身具を着けたレントゲン写真がはやったそうな。X線は肌へのさまざまな書き込みを突き抜けてしまう、しかしそこにも意味がまとわりついてくる。

 他、諸々透ける写真を探して話を作って原稿を送る。
 結論は、写真をあたかも透明に見ているという小言はあれど、それを「すかし」て写真そのものを透かした見方をしてみよう。そういうこと。

■憑依されたメディア
 これでラスト。今回は短め。あとは後期の授業で喋ろう。
 第5章は、第4章に引き続いて心霊TVの現在形を扱ったもの。
 60年代にあれほど恐怖や不安を引き起こしたTVの現前が、サイバーカルチャー論になると恐ろしく楽天的なものになる、それはなぜなのかを問うた章。その、ポストモダン的、分裂的な主体という主張を逆にTV論から捉えなおしてみる、そういった内容。ジェイムソンやボードリヤールなどがあげられ、議論はいささか単純だった。
 もちろん、映画のフレームとTV画面との比較はそこそこ面白いし、TVの奇妙な時制が、以前考えたビデオ論ともつながりそうだし、何よりも昨日挙げたように例が豊富である。もちろん最後はマトリックスがあがる。それはお約束。
 しかし、60年代に推測されていたことの80年代におけるリテラルな実現というところが、大きな問題なのかもしれない。そのリテラルさの偏差が案外重要である。