小史の言う小史

■序言
 マティーエス=マズーレン『芸術写真』(1905)のリヒトヴァルクの文章をざっと読む。
 「ドイツにおける芸術写真が始まってまだ15年も経たない」という文で始まる。
その開始時期とは―――欧米諸国よりは遅く―1893年であり、この時、各々分離していたアマチュア写真家、職業写真家、そして美術館が共通の目標をもってその努力を合流させたのである。芸術写真にとって決定的だったこの催しは、ハンブルガー・クンストハレでのアマチュア写真国際展であった。
 
 そしてその新たな芸術写真の高まりの重要な契機は、肖像画と肖像写真の関係にあったという。肖像画という重要なジャンルがいつのまにか注目されなくなったのは、1840年代以来の肖像写真の影響による。細密肖像画家、そしてやや時間を置いて石版画家が職を奪われ、肖像版画家や画家は70年代にはほぼ消え去ってしまう。90年頃には大都市にさえももはや肖像画家は存在しなかったのである。とはいえ肖像写真家たちの前身は、実は、細密肖像画家たちであり、彼らは芸術的な特性を写真に持ち込んでいる。ここで出てくるのがヒルの名前である。
 「今日でも私たちは次のことを認めざるを得ない。つまり、イギリスの画家ヒルが1843年頃にタルボタイプというぎこちない方法を用いて産み出したような、きわめて高い芸術性を備えた肖像写真が、…〔中略〕…たしかにもっと豊富な技術的な手段を有しているにもかかわらず、けっして凌駕されてはいないのだ、と。」
 しかしあちこちからやってきた無教養な商売人たちが肖像写真家になり、芸術的要素はほとんど失われてしまう。そうした写真家によって修正が行われることになったとき、公衆の趣味は停止したに等しいのだ。あのヒルのすばらしい写真も、すでに80年代には、ポーズや切り取り方や照明の点で職業写真家の写真と区別がつかないほど、こうした写真の新たな様式の呪縛に捕らわれてスムーズに見られるようになってしまっている。
 これが序言。ヒルの位置価値はなんとなく分かる。支点だったのである。
 それがどのようにして再発見されることになるのか、それが引き続き序論にある。

■序論
もざっと読んでしまう。
 職業写真家すらも不誠実な趣味にとらわれていた状況のなかでアマチュア写真家のはたした新たな役割が強調される。その肖像写真における試みが、肖像画という芸術の領野にも影響を及ぼしうると期待される。つまり、流れとしては、写真の登場によって最初は肖像画を含めた芸術が深刻な打撃を受けたが、写真の90年前後の新たな誕生が、別の基礎や趣味を芸術やそれを享受する公衆にもたらすということ。
 ざっと読んでみて面白かったのは、肖像写真がすべての起点にされているところ。
 そしてもうひとつは次のこと。子供の写真についての、90年当時の職業写真家たちの言葉(子供の写真を自分たちは扱わない、なぜなら通常の肖像写真にあるような修正をひとびとが好まないから、、、これはむしろアマチュア写真家の領野だという意味合いの言葉)も90年前後に撮影された子供写真の文脈を考えると面白い。

■シュヴァルツ
 ハインリッヒ・シュヴァルツのヒル本(1931)はどうやら日本にはなかったので、あきらめて注文する。彼の遺稿などをまとめた論集『視覚の諸技術』所収のようである。初めて技術史ではなくイメージの歴史として写真史を語り、写真史の方向を転換させたと言われるシュヴァルツ。しかし、20年代後半の新しい視覚の写真の動向を考えると、なぜこの本が熱狂的に迎え入れられたのか、その理由がなんとなく推測できる。

 ちなみにこの本に関して調べていると、ティム・シュタールの辛らつな書評を見つける。シュタールの意見に従えば、シュヴァルツを称揚するなどもってのほか。芸術の延長線上に写真を位置づけた人物を賞賛すること、それは写真史ではない、ということになる。