植物の世界


バリウム飲んで回ってきた。
ゲップをおさえる様子は、ハイキングウォーキングのコントみたいだった。
老いも若きもパンイチで並んで座って黙り込む。

■植物の世界
 以前調べかけたときに購入したこのカタログを取り出す。

Die Welt Der Pflanze

Die Welt Der Pflanze

  • 作者: Rainer Stamm,Albert Renger-Patzsch
  • 出版社/メーカー: Hatje Cantz Pub
  • 発売日: 1998/09/01
  • メディア: ハードカバー
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 …たぶん誰も、こんな情報は知ろうとも思わないと思うけれど、植物写真の問題、アーカイヴの問題、ノイエザッハリッヒカイトの問題、30年代写真史の前史の文脈の問題、スライドの問題、あらゆる問題が絡み合っているので、長々と紹介してみる。

 レンガー=パッチュがなぜ植物写真を撮影していたのか、ノイエザッハリッヒカイトの写真の源にはどのような思想や企図があったのか、それは、おそらくカール・エルンスト・オストハウスが築いたフォルクヴァング・ムゼウム、そこに併設されたフォルクヴァング・アルヒーフ、そしてフォルクヴァング出版、それらをオストハウスの死後引き受けたエルンスト・フールマンなる人物の活動と深い関係がある。哲学者であり、作家である(商売人でもある)フールマンの企図、その実現のために写真家とのあいだで共同作業が20年代に展開されていた。その成果はシリーズものとなった写真集である(たとえば『世界の諸文化』等)。
 1923年からフォルクヴァング出版を引き継いだアウリガ出版において、フールマンはこのイメージ・アーカイブの拡充を試みており、そのひとつの焦点は植物写真であった。その作業に携わった数名の特色ある写真家たちのなかにいたのがレンガー=パッチュだったのである。こうした意味でフールマンはイメージ監督であり、写真家たちの構想に強い影響を及ぼしてもいた。

「色とりどりの絵画を写真によって再現することがすでに数十年を経て自明なものとみなされるようになってから比較的後に、ひとびとは植物の写真を用いることになった。明らかにその香りや色彩は植物における美であり、興味を惹きつけるものである。しかし生物学的に重要なのはその構造であり、これは形の美と同様に、写真によって色彩や香りから分離されるのであり、そうすることで観者は、植物の本質に焦点をあわせることができるようになるのである」(フールマン『植物の世界』)。

 しかもこの植物の組織や構造の遊離という視点が、ある種の有機体説のもとで人間−動物−植物の親和性の主張へとまとめあげられていく。『世界は美しい』をまとめあげたゲオルク・ハイゼの感情過多な序文やそのプロジェクト以前に、フールマンのこうしたヴィジョンがレンガー=パッチュの写真にも浸透していたのかもしれない。
 ただし、この諸活動にかかわっていた写真家には、レンガー=パッチュ以外、コッホ、ヤコービターレマン、バルレーベンなど複数の写真家たちがおり、その写真の特性は少々差異をもっているようなのである。それをこの本で確認してみる。
  
 フォルクヴァング・ムゼウムという前史(1902−1922)、アウリガ出版期(1923−25)、拠点喪失期(1926−27)、フォルクヴァング−アウリガ出版期(1928−35)、ベルリンへの移動、その後の関係者の渡米によるアーカイヴの散逸、、、このようにフォルクヴァング出版/アルヒーフは区分することができる。

 元来、アウリガ出版のイメージアルヒーフは、ハーゲンに創設された(1902)フォルクヴァング美術館の国民教育的な活動という起源にまでさかのぼる。良質のコレクション以外にオストハウスが構想したのは美術史講義を行うためのホールであり、さらにそのためのスライドコレクションを完備するということだった。「リヒトヴァルクの伝統」にしたがってイメージを通じて事物を見せて公衆の理解を深めるためである。
 この考えの普及のための手段としてオストハウスは、1909年ドイツ商工業芸術博物館()を創設し、商工業における模範的所産を収集、記録する作業に当たらせる。この一機関として1910年写真スライドセンターが設立された。その目的は、博物館の所蔵品の普及、講義用のスライドシリーズの作成である。建築写真がとくにその中心のひとつだったようである。
 1914年、このアーカイヴは、それまで協力をえていたシュテットナー社との関係が切れ、独自のアーカイヴを継続させていかざるをえなくなる。それゆえフォルクヴァング・ムゼウムに写真ラボが設けられ、ここに写真家が雇用される。同時にオストハウスの意図に基づき、イメージ収集作業は近代の芸術や建築ばかりでなく、あらゆる地域、あらゆる時代の諸作品を収集する方向へと拡大する。そして同施設は1915年にフォルクヴァング出版と名前を変え、1919年その指揮を、フールマンが受け継ぐ。

 フォルクヴァング出版の写真部門を任された彼は、前任者の企図をさらに拡大していく。スライド作成と出版双方において、この世界大百科事典的プロジェクトが進む。中国、ペルー、メキシコの諸文化、インカ帝国、アフリカ美術、ニューギニアの所産が個人所蔵およびドイツ内外の機関の写真から集められる。
 レンガー=パッチュが深くかかわっていたのは、このうち1920年から25年までにあたる。つまりフールマンがその企図を展開しはじめた際の最大の共同者になったのが、この写真家だったのである。先の世界の各時代の文化的所産を撮影するために、レンガー=パッチュは、ドイツ各地の博物館を訪れ撮影を行う。このさまざまな「事物」の客観的な記録撮影が、彼の写真による対象の把握の形成のひとつの契機となる。フールマン『世界の諸文化』シリーズの写真、これがまず始まりだった。後の『世界は美しい』のマウリ族の仮面もその一枚なのである。
 しかし21年のオストハウスの死後、財政的な後ろ盾を失い、22年秋にようやく新たな後援者を見つけたフールマンは、レンガー=パッチュとともにダルムシュタットに施設を移すことを決定する。この新天地で写真アーカイヴの拡充作業は続行されるとともに、新たな主題の写真がここに加わることになる。それが植物の世界だった。

(つづく)
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