ドイツの芸術写真


 電柱が見守る話。不謹慎だがラカンのカイヨワみたいである。監視ネタのメモ。


■ジャーマン写真
から。手っ取り早くドイツ写真の写真家列伝ではない語り方をした通史を読む。いちおう世紀転換期の芸術写真と第一次大戦後のフォトジャーナリズムを含め、ドイツの写真全般の基本書。
 German Photography 1870-1970: Power of a Medium
 で、ウルリッヒ・ケラーによる該当箇所を読む。ケラーといえばザンダーの研究でも確か有名なはず。
 

Menschen des 20. Jahrhunderts. Sonderausgabe

Menschen des 20. Jahrhunderts. Sonderausgabe

 ここでもやはりリヒトヴァルクの名が挙げられ、90年代にドイツでの美的改革運動を進めた立役者として記述されている。一般の公衆にも目の教育を説くうえで彼は、アマチュア写真の活動と向き合うことになり、先に書いたような写真展を何度となく開催し、その裏づけとなる講演を数多くこなしている。彼の活動モデルとなったのはイギリスのアマチュア芸術写真運動であるが、ハンブルクの事例は、これよりも裾野の広い機会と場所を提供していた点で違う。
 1886年にヘンリー・ピーチ・ロビンソンの本が翻訳出版されたのも、こうした流れに関係している。もちろん、80年代以降に可能になったさまざまな技術は、それに加えて多くの教本での技術解説を必要とした。しかし結果として生じたのは、やはりぼけた朦朧とした芸術的写真であった。
 芸術改革の運動のなかに、アマチュアを含めた写真運動が位置することは明らかだが――たとえばミュンヘンやベルリン、ウィーンの分離派とアマチュア芸術写真の関係はしばしば言及される――、その支えとして同時代の芸術運動と具体的にいかなる関係があったのかについては、それほど資料は残っていない。つまり、両者が共同しての展覧会の数は多いものの、その規則や基準は曖昧なままである。もちろん、いくつかの推測をすることはできる。
 たとえば、以前も書いたように、世紀転換期になぜ肖像写真ばかりが(風景写真も少々)写真家たちを語る際の重要な話題になったのか、その理由が説明されている。この時期の芸術写真家たちが範とした歴史的な絵画のうち、歴史画、風俗画、静物画、裸体画はドイツ語圏ではそれぞれの事情があって回避されていった。残されたジャンル、主題は肖像と風景になった。そういうことらしい。
 そしてこの時期のそうしたアマチュアによる芸術的な肖像写真を見ると、50−60年代の肖像写真との差異をいくつか確認することができる。ケラーが言うには、社会的名士を描き出したナダールやキャメロンとは違い、世紀転換期の肖像写真は、個人の特性を超えた描出を特徴としているという。文化的記号を衣装や家具やその他の調度品に囲まれた匿名の人物がモデルになる。書割やスタジオのセットはまったく排除されているのは当然である。撮影者は、文化的エリートたち、時間も金銭も余裕のあるひとびとがこうした実践を行っていたようである。
 これに対して、商業的写真家、職業写真家には危機が訪れていた。スナップ写真を自前で撮影してしまうアマチュア、美的に手の込んだ肖像写真を撮影するアマチュア、デパートでも可能になる産業化された肖像写真スタジオ、こうした何重もの侵食にたいして、従来の有名写真スタジオは、顧客の喪失の危機に晒される。そこで活動の場として求められたのが、アマチュアも発表の場としていた例の大規模なアマチュア写真展であった。その結果、少数の高級写真スタジオのみが世紀転換期以後には生き残ることになる。
 面白いのは、アマチュアの芸術写真家とこうした高級な手法をとる職業写真家たちの文法が似通っていたにもかかわらず、諸々の展覧会ではプロとアマの分類をされて賞を授与されていたという事実である。
 …と紹介してきたケラーの記述であるが、最後にこうした美的改革運動が数多くの活動をもたらし、さまざまな期待を抱かせたにもかかわらず、1910年代には頓挫する理由が述べられている。裾野の広い作用圏を想定していたわりには、結局は美的なエリーティズムに帰着点があり、アマチュア写真への視野もその手段以上のものではなく、そのうち写真への関心はむしろ技術的、経済的な側面へと主な作用圏を移してしまう。リヒトヴァルクにはまさにこうした見解がぴったりとあてはまってしまうのである。

 とはいえ、ドイツの芸術写真の文脈の解説、そのなかでのリヒトヴァルクの位置を論じる議論としては面白かった。数々の写真展開催、写真雑誌、写真集出版への促進が、「目の教育」のプログラムにあり、それが伝播して昨日のフールマンへ飛び火していく過程は、20年代にも引き継がれていく。ただ、次元はまた別の話であることは明らかなのだが。