未完の過去と未完の現在

■未完の過去シンポ
国立国際美術館開館30周年 記念シンポジウム「未完の過去 − この30年の美術」

 を聞きにいく。…といってもあれこれ用事を済ませて最後のセッションのみ。
 シンポジウムのなかの美術館についてのセッション。
 たぶんあちこちのセッションでは―聞いていないのでたしかなこと分からないのだけれど―70年代前と後、ポスト-の時代の前後の問題が確認されていたのであろうと思う。そのポストの時代の現在に美術館においてどのような展示的/収集的試みが可能なのかを、3人のパネリストが提起するという流れだった。美術館のひとがパネリストにならなかったのはかえって面白かった。
 でも、やはりC系列というアイディア、そして事物に内在する秩序、それに応えた編成原理、もう少しその具体性について、そしてその原理で鑑賞者や観者はどう議論されるのかについても話は聞いてみたかった。もちろんそういう理念を提起するということがこのセッションの主眼だったと思うのだが。
 これもたぶん、、、という推測しかできないけれど、美術批評のなかで強烈に言説を推し進めるひと、とり憑かれたようにパラノイアックに物語ってしまい、勝手に力技で作品をとりまとめてしまうような人材が現在少ない、そういう各所で聞かれたであろう主張は、前回のもの派シンポでも聞いた覚えがある。

 ひとつだけ。ライブ中継でとことん微妙に妨げられていく会話を見て、この極小の時差が微分化されて分かれていく時間の切片、これがとても気になった。もちろんそれが分裂したただのスペクタクルな現在形にしかならぬのかもしれないが。しかしそういうものとは違う分裂的現在形もないのだろうか、、、ぼーっと考える。