モノグラフィの欠如


もう一週授業、クリスマスの集中講義、訳、原稿1本。
まだ今年は二週間もある。しかもみっちりある。

■モノグラフィ
 昨日来神してくれた出版社の方と話をしていたら、こんな話も聞いた。
 写真家について積み重ねられた言説を集積しモノグラフィを編む作業を始めたら、これが意外や意外、単一の写真家について一定の長さで書かれた文章が少ないらしい。これは某有名写真家についての話であるから、事態は本当に全体にわたっていることが分かる。
 もちろんそんな話を聞きつつも、他方では、美術館に所蔵される写真作品が増えていくにつれて美術史的な整理や議論は増えていくにちがいない。写真もすでに美術品になっているところもある。
 ただし、そうした写真家=芸術家の枠組みのみで書かれた言葉の中では、写真家が批評的営為として撮影した写真を、言葉の批評で請出すような文章はなかなか出てこない。そういう方向の文章がもっとでてこないとならない、ではそのためには、、、そういう空間がそもそもどれだけあるのか、、、という話だった。たしかに写真についての長めの批評も載る批評系雑誌は、案外少ない。
 私がヴァナキュラー写真とか、心霊写真とか、こういう作者をずらす仕事しかしていなかったのは、芸術家としての写真家言説がもっと早々と制度化されるもんだと思っているから。でもそういう仕事も少し考えていかなければならないのかもしれない。
…でも何人か作者としての写真家を批評しそうな若い書き手はいるとも思う。
 東京のあのひととか群馬のあのひととかニューヨークのあのひととか。