踏み込み

九州での出稼ぎ仕事も終わり、
引き続き九州で翻訳と原稿書きともろもろ雑用をこなす日々。

■デジタル/アナログ
について書くといいながらしばしダウン。
いや、年末の現在、まだ次から次へと事務仕事が九州にもやってくるのであった。
とはいえ、少しだけ書いておきたい。

 このテーマについての、あるいはこのテーマでの発表についてのあれこれのやり取りを見ていて、どうにもあまり生産的ではないと私が思うのは、両者の対立項の切断と接続の意思がそうした議論のどこにも感じられないところにある。
 発表の議論そのものが省略のためにある種の欠落があったことは明らかだ。でも、それは意図しての切断ではない。問題は、議論の全体を補ってみて本人がどこに切断や接続をしたいのだろうかを問うことだと思う。現在デジタルについての議論がなされなくなった、だからその問題を議論する、それだけでは動機にはならない。

 たとえば、マノヴィッチの議論を読んでいれば、その強烈な遡行的編集意図は分かるであろうし、バッチェンを知っていれば、技術を語る歴史そのものの磁場をずらしてしまおうという意図が分かるだろうし、フルッサーを知っていれば、そもそも銀塩の粒子がデジタルだっていう切断をして途方もないパースペクティヴを立ててみようと煽ることさえできる。ウィリスやそのほかの90年代初頭のデジタル論者たちも、それはその当時は政治的意図があっての議論を提示していた。だから、このデジ熱も沈静化した現在、なぜあらたに「/」を入れるのかは、動機付けがあって当然だと思う。そういう動機を引き出さなければ議論は退屈でしかない。発表そのものがそういう意思を見せないと見ていて退屈である。

 切断の諸条件、接続の諸条件を政治的に意識してあえてやってみるような議論が少しでもあれば、それは刺激的な議論になるはず。なし崩しにぬるい議論の温床が維持されるだけなら議論する意味はないと思う。
 技術決定論をずらすのはいい、でもその先に何を主張したいのか。小さく自己回帰して現状を温存させている議論ならば、そこからは何も得るところがない。

 という切り込みのための踏み込みの足りない議論に少しかりかりしたのであった。
 別に踏み込めばいいだけじゃない、そう思う。

以上、時間もないので最低限のコメント。