スクリーンとスクリーニング

■鏡とスクリーン 装置の現在

 引き続いてベッヒャー派の発表について。
「ドイツ写真」と「ベッヒャー派」という言説の錯誤や誤認を指摘し、現在なぜグルスキーの光り輝く光沢ある摩擦なき画面に、批評家を含めた多くのひとびとが困惑してしまうのか、それが、ラカンの目と眼差しの分裂の図式を援用して語られている発表であった。

 鏡の向こうの実在を透明に見ていると誤認させる写真、それは実は、そこに自身の姿を投影している鏡像が重ねあわされているがゆえに生じた錯誤のイメージにすぎない。ところがこうした錯誤を批判するためには、鏡を砕くという直截な方法をとることはできない。なぜなら、そもそもスクリーン化した光沢ある鏡の向こうには何もないのであり、スクリーン上にいる私たちはここをひとまずの起点としなければならないからである、とまとめれば話はまとまる。

 もちろん、これもすでにコメントしたように、話の効果的な組み立てのために導入したはずのいくつかの図式が、混乱を生じさせていたという印象はあった。例えば、映画装置論としてすでに70年代にあれほど使用され、その誤認がコプチェクによって批判された装置論を、現在どのように写真の議論に取り込みたいのか、それを単なる比喩としてではなく、図式として使用したいのならば、もう少し手続きが必要であろう。

 他には、
 大戦間期プロパガンダとしての写真の話は、首をかしげる部分はあった。それは巨大写真ではあるが、19世紀の巨大写真とは明らかに位相が異なる。いずれにしても、戦前戦後をまたぐ写真の問題は、まだ資料が必要。ナチ政権時代のヴァナキュラー写真の資料は少しずつ出版されている。
 ただし、これ以上一本の論文に情報量を増やしても一本の論として冗長になりすぎるだろうから、戦後まででせき止めて議論をまとめたほうがよいとは思う。

 写真装置論、以前そういう伝説の雑誌もあったが、写真に関して、装置論はまだ充分に立ち上げられていない。最近ソロモン=ゴドーがやはり「装置」概念を掲げているし、あるいはフルッサーの同じ概念もここでは参照対象になる。マーガレット・イヴァーセンのラカン図式を援用した写真論も、ここに入る。

 というわけで、三つの発表、無理やりまとめれば、
ドイツ写真という理論的磁場を依然として統御している言説的スクリーンがあり、
初期映画という古典的磁場の中で見逃されているスクリーンがあり、
さらには現在のスクリーン問題を如実に示す非物質的なスクリーンがある。
 ところが発表のいずれも、そのスクリーンの圏域の途方もない広さを充分相手にできていない、それが一方で不満であり、他方でそうしたスクリーンアウトされていることはこちらがやるべき仕事なんだろうと思う。

以上、簡単すぎるけれども、研究会のコメント。