スクリーン論


■スクリーン論
 マノヴィッチのスクリーン論をざっと訳してしまう。
 議論としてはきわめてシンプル。
 彼はスクリーンを時代ごとに次のように区別する。古典的スクリーン、動的スクリーン、リアルタイム・スクリーン、インタラクティヴ・スクリーンの4種である。この相互に重なり合うスクリーンの系譜は、絵画、(写真と)映画、レーダーとテレビとコンピュータ・スクリーン、VRを思い浮かべればよく理解できる。スクリーンはそれぞれ、静止や永遠、(過去性と)運動、現在という時間的契機によって区別されている。
 絵画のように、正面から見られる、別世界への窓としての長方形に区切られた平らな表面が第一にあり、第二にそこに、映画のような、動的イメージを示すスクリーンが重なり合い、イメージへの集中や同一化を基礎とする「視の体制」を強力に促す。こうした集中や同一化のためには、スクリーンと単一のイメージが一致していることも重要である。映画が典型的な例になる。
 ライブのヴィデオ・モニターやテレビ、レーダーやコンピュータ・スクリーンでは、これとは違い、リアルタイムで刻一刻と情報の変化がアップデートされる。テレビの走査線でも、レーダーの回転するあの映像を想起すればよい。しかもここでは、同一のスクリーン上に複数の窓が共存させられることも多い。複数の情報への多集中的な注意を要請するのがリアルタイム・スクリーンである。
 さらにここに、スクリーンを提示手段としてばかりでなく、作用をこちらから及ぼすインターフェースとして使用するスクリーンが登場する。さらには、VRの場合のように、このインタラクティヴィティによって、鑑賞者の視野とディスプレイそのものが同期化しているスクリーンへの移行が生じている。いやむしろここではスクリーンは消失しているかに思える。

 スクリーンははたして消失したのか、この問いを探求するために、マノヴィッチはさらに、スクリーンと観客の身体との関係から、スクリーンの差異を検討する。
後半の議論は省略するが、パノラマについて論じた部分が案外興味深い。