液晶絵画


■溶ける結晶
 液晶絵画展に行く。今日は講演もあり、レイマン氏と鷹野氏を交えたトークセッションもあったので話を聞きにいく。
 液晶画面で絵画。よく考えれば持ち運びできるし、壁にかけることのできる薄さを実現しているし、明るい光の下でも十分に光をたたえる長方形の画面は、絵画によく似ている。あるいは、――出品作家のおひとりが述べていたように――結晶と液体の合間にある液晶という媒体は、媒体としての絵画が流動的になりつかのま結晶する表面として考察される素材になっているということでもある。
 しかも液晶を介した動画作品というのは、映像の静止と運動の奇妙な共存を、かつての実験映画とは違うかたちで反復し、螺旋を描いてずれているような作品になっている。時間のさまざまな制御、たとえばクイックモーションにより静物の腐敗を提示したり、水辺での身体をスローモーションによって緩慢な動きとして示したり、水面に浮かぶ波紋を逆回しで迸らせたり、空中で一時停止させたりと、静止と運動の合い間を見せるような作品が多い。
 なかにはレイマンのように、文字通り短時間のループを繰り返しながら、作品の一続きのリアルタイムの映像の流れに今度は別の伏目的監視映像のリアルタイムを介入させるような試みもある。あるいはパラパラ動画のように関節で分節された境界上の身体がつなぎあわされる鷹野作品もある。
 液晶を使った作品は、よく考えると、際限なく反復されるループの映像である。それは映像が根源において抱いていた不気味な側面の繰り返しでもある。しかし、かつてのヴィデオテープというメディアのように(これが鷹野氏のパラパラ作品のひとつの着想源らしい)、映像が反復されるうちにどこかしらメディア的ずれが生じ、音と映像、映像の走査の時差が劣化によって生じてくるような、そんな部分が均質に制御されている気もする。
 その反面、映像の到来を待つことがこれほど字義的に実現されている環境もない。そこでは、リアルタイムの映像をもうひとつのリアルタイムで待たせ、やがておきるであろうループの中の偶発性を契機に観客の偶発性を呼び込もうとする。液晶を前にするとなぜか、いつもは絵画というカンバスの周りを動き回る観客が静止し凝固して待ち受けてしまう。その理由は液晶環境の自明化や字義的な身体化ということだけではない、別の理由を探してもいいかもしれない。
 とまあこんなふうな意味では、液晶作品が浸透している現在の問題点や時差を引きおこしそうな/おこさなそうな側面をいろいろと見聞きできる展覧会だった。

■電気的心霊映像
 トークについてはひとつだけ。心霊写真への言及や電気的な像への言及もトークでは話題になっていた。
 私の見解。
 心霊は現在はヴィデオテープや各ウェブの動画のなかに散在している。ヴィデオテープのずれでもいい、液晶画面に残るギクシャクしたずれたモザイク的痕跡でもいい。それをあえてフェティッシュとしての写真に封じこめるのもひとつの戦略だと思う。しかし、それをメディアの間に憑依させてしまうのもひとつの戦略である。そして、電気的な映像はオフにしても「流れ」ている。そうした電気的な現在の常態が、写真が巻き込まれている現在だと思う。もちろんその反面で、フィルム的、光学的論理がそこにどのように二重写しになるかも議論のしがいがある問題ではある。
…ということはどこかでまた書くか、話を組み立てます。