マノヴィッチとバッチェン


■グラフィティ誌
たまたま書店でこの雑誌を見つける。
『Tokyograffitti』
サイトはここ。最新号は恋愛写真
手にとってその図鑑的な徹底ぶりに驚き即購入。
バックナンバーの書影を見るだけでさらなる徹底ぶりが分かる。第一号ふたりの写真号と第二号の家族写真号がこれ。ゲップのでそうなツマリぶり。

■スクリーン論
でマノヴィッチの全体像もおさえるべく、「スクリーンの社会」という論文を読み進める。
以前も紹介した哲学的観点からのメディア論史本。
Alice Lagaay und David Lauer ed., Medientheorien,pholosophische Einfuehrung,
 
 そのマノヴィッチ論が述べるように、たしかに彼の議論は、断片的である。現象についての経験的な記述があるかと思えば、大まかな図式が展開され、それが総合されるというよりはさまざまな思考の糸がばらまかれる印象がある。そうした意味で文章は読みやすいものの、その粗密さの点で読みにくい。とはいえ、そうした記述や考察はあらたな現象を浮かび上がらせるための格子であるとみなしたほうがよいと論者(Werner Kogge)は主張する。
 
 というわけでバベッジの解析機関とダゲールの写真装置との並行性から説明は始められる。計算機と記録装置という二つの伝統的系譜の収斂、それがニューメディアを考察するうえでは考慮に入れられねばならない事柄である。
 すでに以前紹介したように、マノヴィッチのこの説明に関しては、バッチェンによる批判がある。この二つの系譜の収斂に目をやりながらも、マノヴィッチは1930年代の映画とパンチカード式の計算機を緊密に結びつけている(『ニューメディアの言語』の表紙はその偏向の印でもある)。
 バッチェンが問うのは、なぜバベッジとトルボット、さらにホイットストーンのつながりを、あるいはサミュエル・モースにおける電信と写真との結びつきをマノヴィッチはおさえないのかということである。
 これに対してマノヴィッチの回答は次のようなものである。(以下は次の更新で)