レポとマノヴィッチ

■レポマン
レポマン [DVD]
 がようやく届く。ソブチャクが三つ目の映画例として、電子的現在を色濃く示す作品として議論しているから。それにしてもあまりにもカルトすぎるこの映画をなぜソブチャクがセレクトしたかの理由が不明。もちろん電子的現前を具体的に示す時間的空間的要素はそこかしこにある。ちなみにレポマンとは商品の回収屋reposessionのこと。

 ともあれ、ソブチャクの議論は結局、そのメルロ=ポンティ経由の現象学的観点から、写真、映画、ヴィデオ(TV)のうち、映画を、生きた身体的で相互主観的な経験を具えているメディアとして賞揚する論にすぎない。映画論としてみた場合も、あまりにも現象学的に「還元」されすぎているきらいがある。

 ソブチャクの映画への強調とバランスをとるために次はスカンスの最終章にすすむ。

■マノヴィッチの返答
 マノヴィッチは、バッチェンの批判(メディアの考古学が実際よりずれているのではないか、映画装置を特権化しすぎではないか)に対して、こう答える。
 他の章にはバッチェンの指摘したメディアの考古学が豊富に盛り込まれている。私の本書での目的は数多くのことなるニューメディアの考古学を提供することだ。件の映画装置と計算機械の並行性は、1930年代から40年代のみならず、1890年代にも見られるし、1830年代にも見られる。たしかに序論で述べたように映画をメディアとして特権化しすぎた嫌いはある。しかしその視野は必ずしも限定されてはいないのだ。
 映画装置の特権化の理由を手短に述べれば、(1)映画は20世紀の最も重要な芸術形式であり、その後継がニューメディアであるから。(2)映画もニューメディアも時間に基礎を置いた力動的なメディアであるから。(3)映画は絵画やその他の諸技術を取り込んだメディアであるから。(4)映画を例に挙げることで、美術史や文学理論とは違い、技術と文化のつながりを前景化することができるから。

 しかし疑問は残る。30年代の前衛映画への議論の収斂は、はたしてニューメディアを議論する切断面として有効なのか。それを先日挙げたコッゲの議論を導きに読みすすめていく。