デジタル本


 チョートクさんのデジタル写真本も注文しておく。二冊が異なるものであることを祈りつつ。
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■デジタル写真の現在
 日本でのデジタル写真言説は、1994年のミッチェル本の翻訳、2004年の飯沢本そしてBTでの特集(2004年6月号、飯沢氏と土屋氏のデジグラフィ対談が収録)がおそらく曲がり角になっていたのであろう。考えてみるとデジタル論は欧米のそれから2,3年の時差をおいて著され、翻訳されている。

 現象としては、2000年から2001年にデジタルカメラの販売台数や売り上げの飛躍的増大があり、その後、いわゆる「メガピクセル」時代を経て、簡易的で廉価で携行可能なケータイカメラの進化が進み、2003,4年時点でその可能性は画素数の面ではある種の均衡状態に達し、ケータイカメラへの違和感を表出する言説も、2005年頃までに出尽くしているようである。デジタルはもはや透明化し、それをかつてのようにことさら喚起的な言辞で取り上げるほどの焦眉の問題ではない、そう見なされているのが現在である。たしかにそう見える(ちなみにPGでのバッチェン・インタヴューでもそうした言葉をひろいだすことができる。バッチェンがデジタル写真へと言及しているのは、初出が1992年から94年にかけてのことである)。

 以前、とある写真家の展覧会&講演会に出かけていった2004年当時、写真作家の卵たちはしばしば「デジタルはどうですか」という質問をいささか遠慮がちに写真家にぶつけていたとすれば、同じ写真家の講演会に出かけていった2008年、同じ写真家が口にしたのは、デジタルの時代に写真家はいかに生存可能かという問いであり、他方会場にいた作家の卵が口にしたのは、どうすればこのデジタル時代にそうした「キャラ」を獲得することができるのでしょうか、という問いであった。デジタルの自明化、拡散の進度はこういうところからも拾いだすことができる。このデジタルの字義化に起因する、どことない切迫感と非切迫感の温度差も現在の徴である。それが焦点化されることはもはやそれほどない。

 その反面、デジタルをめぐる感覚や感情や認識は、画素数を中心とした機構から認証の自動機構へとシフトしているようにも思える。例えばそうした経緯は、エルセッサーが書いているように、文化的な「真実らしさ」とは複数のアプリケーションから成り立っており、その各々のアプリケーションが顕在化し、そのつどそれが焦点となり、摩擦を引き起こすというデジタル技術の受容史をそのままなぞっているようでもある。もちろんこうした自動化は写真の発明以来、そのつど生じたことであり、その社会的政治的文脈を前景化しないかぎり、これもそのつどの技術的アプリケーションをめぐる個別に分断されたトピックになるのであろう。とはいえ、他方で顔認証を古めかしい近代の監視による主体の規律訓練の言説に放り込んでも、何も議論したことにはならない。
(つづく)