美学会終了

■レクチャー終了
レクチャーは無事終了。東から南から、とにかくお越しになった方、ありがとうございました。またこうした写真のレクチャー・シリーズをまた京都で行う機会が増えると思います。
とりあえず来月半ばに再び同じ素材で心霊写真レクチャーをやる予定です。

美学会
 で、その翌日から美学会。今年は理論系、音楽系、美術史系が多いという印象。
 一日目は映像関係の部屋、二日目は午後から場所と感性の部屋、その後懇親会、三日目は午前に司会をやった部屋で諸々話を聞く。3日間結構酒を飲み続けた。ヴェルトフと生理学の話、ジェフ・ウォールの話、スライド、シネオラマ、リアリズム絵画、デュラスの映画の話などを聞く。
 聞いた話のなかで最も面白かったのは西村さんの話。必ずしも廃墟の話ではなく、むしろ場所論というべき議論であった。
 そしてどことなく写真の話にもつながる結論であった。ということで考えて少しだけ異論をとなえるならば、発表中に少し出ていた廃墟マニアや廃墟写真ブームというのは、――19世紀以来の廃墟と写真の親和性以上に――、廃墟を写真のフレームや、それを写すPCモニターのフレームが廃墟イメージへの欲望やリアリティをあおっているという仕組みになっている。場所に踏み入らない、万が一、たとえ踏み入ってもその享受のしかたは複数のフレームがすでにあってその相互の落差がリアリティになる。ならば、、、という議論も立つだろう。

 三日目のシンポも聴講する。一言でまとめれば、「芸術は誰が作るのか」というテーマ設定の下、4パネリスト中3先生がこの問いを「芸術」と「作る」をずらすことで「誰」の周りを迂回する報告だった。問いやテーマ設定の時点でこうなることは決まっている。というか、作者の死や、注文主や制作の社会的文脈などなどについて言及することは現在当たり前の儀礼になっているからだ。
 むしろ著作権の問題や、それに絡んでかなり字義通りのベタな作者礼賛や作者の復活、あるいは主体としてなかなか成り立たない作者の問題など、扱う問題は多い。ま、それはお前がやれということなのだろう。
 また、「作る」に対して「なる」「化ける」「発見する」の各モードにはいずれも写真が深く関わっている。これも写真メディアの問題としてどこかで議論しなければならないのは確か。

以上、結構忙しかったこの3日間のまとめ。