家庭内メディア


毎日雑用。とにかく忙しすぎる。一週間の移動が四都物語になっている。


■家庭内メディア
 今日は京大の授業をエルキ・フータモ氏の講演聴講にあて、その後再び奈良へ。
 講演の内容は、家庭がニューメディアの文化的形成のひとつの重要な中心になったことを18世紀から20世紀にいたるまでの諸事例を挙げながら明瞭に議論したものであった。ステレオスコープはもとより、ピープショー、ムーヴィングパノラマ、ゾグラスコープ、はては扇や衝立にいたるまで、親密な圏域を形成しつつ、それを内外に分割し結合する、透過性のあるメディアの縦横の織り糸のつなぎかたが面白い話。
 いくつか、あらためてなるほどと思う点があった。ひとつがカメラオブスキュラの話。そしてもうひとつが家庭でのメディアの中心地としての暖炉という話。前者は、カメラオブスキュラの経験が外の視覚像が室内に送り届けられるライヴの像であるのだが、その受容の独自性は、音声像の懸隔化にもあるのだということ。これは何でもない話に思えるかもしれないが、音のみが間接的になることで生じる経験の次元は、他の視覚装置においても展開できる論点だった――たとえばパノラマ。後者は、不安定で動的な光源としての暖炉の周囲に設置される各家庭メディアを一覧していると、たとえば写真はこうした暖炉上に置かれていたということもここから考えることができる。また、実際に動画で見せてもらったムーヴィングパノラマ(ヴューボックス)の映像も、ある一定の大きさで見たときには、そのパターン化されたレイヤー状の空間構成が予想外に観者に訴えるものであることが明確に分かった。
 もちろんスクリーンのサイズや形状と受容の問題とか、プロジェクションとリアプロジェクションの相違とか、ステレオスコープにおけるまわし読みの問題とか、まだ話はつきないに違いない。
 個人的には、ヴァナキュラー写真論を一本書く予定なので、そのためのいくつかの軸がここから取り出せそうな話でもあった。

■ヴィデオ論
次は大体こんな内容。

ヴィデオは1960年代半ばに登場し、当初はイメージをそのまま捉える機能しか持たなかったが、1969年からヴィデオテープが登場し、71年からは再生、巻き戻しの機能が備わるようになる。この、初期の段階での同時的、時差を置いた、信号の、カメラからモニタ、カメラからカメラへの伝達という、閉回路の実験が、ヴィデオにとっては重要である。そうした実験、つまりフィードバック、タイム・ディレイ、ディレイド・フィードバックなどの実験が生〔ライヴ〕で行われ、それがスクリーンに投影され、映画のカメラによって記録されていた。ライヴフィードバック技術の拡張は、処理装置、シンセサイザー、キー入力装置の発達に起因している。電子信号の調整は、電圧や周波数帯の操作に関わっており、そうして装置の内部でさまざまな聴覚的、ヴィデオ的効果が生み出される。それが、外部カメラによって撮影され、ヴィデオテープに蓄積される。

ひとまず少しずつ気が向いたときに内容を小出しにしていくことにした。
こちらは家庭内に届く前の実験段階の話。