美学と麻酔論


3本論文、1本発表、2冊翻訳にかかっている。
忙しい。

■業務
京大で今期最終授業。シュピールマンのヴィデオ論序論をさっくりまとめる。ヴィデオアートについての言説は結局、いろいろあったの結論に行き着きがちだ。そして、ヴィデオアートではなく、メディアアートという別のカバン語でここらへんの経緯が片付いたような歴史的説明も多い。しかしヴィデオのメディア的特性に焦点をあわせつつ、しかもメディアの非固定性を軸に議論を立てるこの本は案外面白いかもしれない。もちろん冗長すぎるのが難な本ではあるが。
 残り時間はステレオ論を大まかに話す。壁紙錯視の話をしながら「醒めた酔い」の話をしつつ終了。来年度の写真学のために、これも素材を追加していく予定。これに関連した形でパノラマ写真論もそろそろ書いていかねば。

■麻酔学と麻痺論
 ミリアム・ハンセンのベンヤミン論(「非-一方通行路」)を読む。
 ベンヤミンに見られる近代のアンチノミー、これは、一方で複製技術による因習的な文化の破砕を肯定する立場、他方でそうして破砕され失われるアウラ的経験を肯定する立場の対立と言い換えてもいいし、伝統的文化の清算の主張とその保守的擁護、破壊destructionと散漫distraction、、、数々の論者が主張する対立に置き換えることもできる。
 この対立はバック=モースの論文のタイトルにもなっている「aesthetics and anaesthetics」という二つの対立概念によって要約することもできる。経験の層から意識的知覚のみを遊離してしまう「麻痺化」についてのペシミスティックな彼の議論、つまりフロイトからベンヤミンが流用したショック概念と刺激保護の議論と、ファシズムに見られる「政治の『美学化』」に対するベンヤミンの批判のことである。
 一方でベンヤミンは、ファシズムにおいて、麻痺化によって否応なしに破壊され否定されるべき因習的アウラ的層の永続化(美学化)と、刺激保護膜を破壊するはずのスペクタクルな技術の「麻痺的」使用の結びつきを見て取る。しかし他方で彼は、技術によるスペクタクルと刺激による先の意識の防護壁の破砕を主張する(麻痺化と美学化の別の結びつき)。
 …いかにもバック=モースらしい要約である。
 しかし、ハンセンが言うには、バック=モースの議論の描き出す歴史的軌道(ショック-麻痺化-美学化)は、弁証法を構成しているというよりもむしろ、破局へ向けて加速する衰滅の渦や螺旋に近しいものである(そして突然の介入や切断によって停止させられるという結末がひかえている)。ハンセンはこうした選択肢を認めつつも、「神経刺激」、イメージと身体空間の統合、世俗的啓示などなどの彼特有の概念や思考が、革命的比喩に収斂するばかりではなく、もっと散漫かつ緩やかに日常のなかの政治的な身体作法として議論できないかと主張する。
 そこでキータームになるのが「神経刺激」である。
 ハンセンは、この語が20年代後半から30年代初頭の彼のテクスト(『一方通行路』)に登場した際の記述に目を向ける。フロイトから、あるいは生理学から借用されたこの概念は、技術と人間のかかわりをつなぎなおすためのキーワードとして、上記の技術的ショックに対するある種の解毒剤や矯正項として呈示される。もちろん、この概念は、フロイトの用法とは異なり、双方向的で、方向づけなおすことの可能な、世界と身体との間のある種の多孔状の境界面やメディウムとして設定されている。ここらへんの記述が今回面白かったところ―― 非一方通行路というタイトルは、このようにエネルギーが一方通行ではないことも含意している。

…と引用をいくつもあげつつ、神経刺激が他のキーターム(視覚的無意識、模倣能力、仮象と遊びなどなど)と組み合わされて議論は続く。いつもながら手堅い論文。ミッキーマウスチャップリンに関しても少々言及され、現在の香港映画にも少しだけ話はもどってくる。不満を言えば、ガニングほどにはベンヤミン文献の磁場をはみ出ようとしないところ。
次は、ハンセンのミッキーマウス論にも目を通してみることにした。

 ショックや刺激の話にかんして、バック=モースの枠組みもハンセンのその修正枠もたしかに参考になる。。。が、麻痺や陶酔という状態とメディアの問題をつぶさに掘り下げるほうが、もっと道具立てが出てきそうな気もする。ということでそういう問題を麻酔論(学)とつけておく。エステティックスと麻酔学、響きはほとんどプチ整形クリニックのごとし。