写真の存在論、反復論

大学。評価の会議と教育プログラムのWG。
評価されるものをつくるための、教育するための時間がなくなることこのうえなし。

■未来映画

Future Cinema: The Cinematic Imaginary After Film (Electronic Culture: History, Theory, and Practice)

Future Cinema: The Cinematic Imaginary After Film (Electronic Culture: History, Theory, and Practice)

ようやく複写を入手する。日本語訳もあるが、ボリュームがまったく違う。
たぶんこれは来期の極大極小スクリーン論で有効利用できそうである。
モントリオール万博の参考資料にもなる。

■写真の存在論と反復性
 久々にドイツ20−30年代写真論を読みかえしている。
 レンガー=パッチュの写真の存在論をもう一度おさえなおす。写真がそれが描き出す対象であるという、写真と対象をつなぐ繋辞こそが写真の本質だとみなす議論、そしてそれを支える彼の写真の数々の求心的で反復的な構図の作り上げ方(『世界は美しい』)、両者が緊密に関係している、そういう話を読む。またこれにならんで、この写真集が前提にしている19世紀初頭以来の視覚文化、写真文化も大まかにひろっていこうと思う。100枚や150枚や200枚で世界を一覧させる写真本はある時期大量に出回っている。そうした写真を通じての目の教育とか視覚読本みたいな流行があったようである。

 行きがかり上、ユンガーの写真の見方について書かれた論文(ヴェルネブルク「エルンスト・ユンガーと変容した世界」)も読みはじめる。論者が言うように、20年代以降の視覚文化の拡がりについてはこれまで多くが書かれてきた。たとえば写真研究でもしばしば眼にするワイマール期における写真集の大衆的受容分析が政治的左翼の立場から行われている。ところが保守的、反動的右翼サイドがどのように写真を扱っていたのかは――こちらのほうが写真の新たな用法を最初にはじめたはずなのに――なかなか分析されることがない。。。という書き出し。たしかにそうかもしれない。