メディア地理学、メディア考古学
「山篭り」と呼んでいる2デイズの缶詰仕事が終わり、ようやく下山。
ま、一言で書くと、今のこのシステムがいかにひどくなっているのかがよく分かった2日間だった。
で、翌日である今日は朝から授業4つ。これを休講にできないのが今の大学。
■メディアジオグラフィー
Mediengeographie: Theorie - Analyse - Diskussion
- 作者: Joerg Doering,Tristan Thielmann
- 出版社/メーカー: Transcript Verlag
- 発売日: 2009/02
- メディア: Perfect
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■業務とメディア考古学としての映画史
監視の授業をしてワイドスクリーンの話をして映画のジャンル論を一章読み終え、その後、エルセサーの「メディア考古学としての映画研究」を読む。最後のものは方法論を立てる以前にアイディアをいくつかあげつらった文。最初の4分の1のポイントをまとめれば、こうなる。
現在、可視的/不可視なものの論理をになうメディアとしての映画について考えるには、個々の映画からよりもむしろもう少し広範な映画的効果の観点から作業を進めねばならない。ある意味で、内部に対して距離を置ける外部のない内部のみの拡がり、そうした映画的なものの浸透、これをいかに考察するかが焦眉の課題になる。
こうした再考のきっかけとして重要なのは、映画生誕100年を機に展開されている各考察、そしてこれに並ぶのが、現在のデジタル化というキーワードで繰り返し語られる新世紀前後に生じた視聴覚技術の変化の言説である。しかしこうした相互に収斂する諸メディアの技術については十分に明確にされていない諸前提が多々あり、その映画への影響関係はいまだ自明ではない。
デジタル化をひとまず映画史における切断の契機とみなしてみよう。ただしそれは技術的観点からでも、美学的(前衛の)観点からでもなく、むしろ歴史的切断や変化についての諸言説を考えるための契機にしてみたいからである。
ここ20年来の初期映画研究は、単純に未来を寿ぐ言説でも未来に絶望する言説でもなく、視聴覚メディアのよりいっそうの理解に資する基礎になる。とくに先に述べた歴史の連続と切断、収斂と乖離などの諸概念を再考するための足がかりになる。
初期映画研究にはさまざまな成果があった。たとえばバーチによる区別は、従来の伝統的な映画史のリニアなモデルに反論すべく「原初的再現表象モード/制度的再現表象モード」という概念を提起している。ただし、その区別の前提にあったのは前衛的な美学的思想であり、これを支配的なハリウッド映画に対置するのが、彼の意図の核だった。
もちろんこうした論争は、ある意味で時機を得たものであった。70年代のテレビ/ビデオの浸透による映画観客のますますの減少、映画史を意識産業や娯楽産業の文脈のなかで議論する左翼系メディア史の議論、ハリウッドの80年代からのリバイバルとその古典的映画からの乖離、こうした諸々の事柄と上の論争は呼応していると言うこともできる。こういう流れのなかで「アトラクションの映画」という概念をひっさげて、初期映画をめぐる論争をひとり勝ちしてしまったのがガニングであった。(つづく)