芸術写真、スライド写真


■業務
 今日は三年生8人の全発表を延々と聞き、コメントしつづけた。わんんこそば状態。
 フランスオペラのものは感情の複数性のための道具立てについてもっと聞きたくもあり、モリスは焦点を何にあわせるかでまったく議論が違ってくるのでまだまだこれからだろうし、ちんどん屋発表は過去に地平を限定すればおそろしく面白い話へ展開できるだろうし、ロマン主義の演劇はもう少し比較例を出せば議論は映えるし、ディオールはなぜこの時期にラインものがでてきたのか、ファッション写真との関係はどうかを問題意識をもって調べるとよいと思ったし、舞台照明は過去に遡ったら思い切り投光機の歴史をうがつてもあろうし、美術館の発表はインスタレーションやサイトスペシフィックをさらってみる必要があろうし、家族写真は英語文献を操れればもう少し先に進めそうな気がした。
以上まとめ。
…いや、疲れた。発表者の皆さん、お疲れ様。
院生はこういう機会はコメント力をあげる機会なのでもう少し参加したほうがいいです。

■メディア考古学としての新たな映画史
 ガニングの「アトラクションの映画」という概念が、同種の諸概念に対して優位になったのは、その概念が古典的な物語映画に、初期映画および20世紀前半の前衛映画を対立項としておくだけではなく、現代的な事例との関連をとることができるからであった。映画のみならず、電子的メディアやインタラクティヴメディア、ヴィデオゲームにいたるまで、この考察は押し広げられていく。
 このような彼の考察の拡大は、映画史を複数の並行的歴史から成るものとして仮定することにもつながっていく。複数のパラメーターがあり、それが定期的に反復されるというぐあいに、従来はひとつの基準からの逸脱や基準の転覆といわれたものがもうひとつの基準になる。
 だが「ニュー・フィルム・ヒストリー」はさらに先に歩みを進めねばならない。つまり、既存の古典的な映画や映画以後の言説に二項対立的に論争をしかけるだけでは、基準と逸脱という対立を逆転させているだけにすぎない。むしろ、基準と逸脱という対立をひとまず宙吊りにし、リニアで目的論的な映画史の語り方に疑義を呈する姿勢を、映画史の基礎にすえねばならない。なおかつこの態度はデジタル化による諸メディアの収斂という語りにまで差し向けられるべきであり、そうした語りに対して、複数のパラメーターの非同時的共存という問題に私たちの注意を喚起させる必要もある。(つづく)

ここまでが4分の1。次回は一週後。

■リヒトヴァルク
Alfred Lichtwark
リヒトヴァルクの伝記を読んでいる。これは今ひとつの内容。ただし彼は、スライド論の系譜にも少々引っかかるし、現在書こうとしている20世紀初頭のドイツ芸術写真の語りのうえでも、結構重要な人物であるのは確か。