墓堀、ゾンビ化

今期最終日。
朝からパリテキについて話し、マイノリティリポートについて話し、午後はアイマックス論の入り口まで話し、しばし休憩してエルセサーを読む。

■映画の考古学
 先週のつづき。エルセサーのテクスト参照。
 現在のメディア的視座が過去の見方を変えてしまった一例として、映画の出現をめぐる議論のしかたがある。かつては写真、投影、残像運動の3本柱で語られていた映画の発明は、現在では音ももうひとつの柱に加えられるだろうし、メディア環境を考慮にいれるならば、フォノグラフ、電話、ラジオなどもここには加わってくる。デジタル化に言及することがなくともすでにこれだけ映画の概念は変容をしている――もちろん現在の強力な視野の改訂のためにデジタル化は必要不可欠な視座ではあるのだが。
 ではそうした視座の変容の帰結はいかなるものなのか。一般的な系譜図という意味で、さまざまなメディアの間で組み立てられる規範的な説明は、初期映画、サイレント映画、トーキー、ネオレアリズモとワイドスクリーン、テレビの浸透、デジタルメディアの浸透といように継起的にメディアを前後させるモデルが流通している。しかしこうした諸変化や異なるメディアの縫合的手続きには首を傾げざるをえない。なぜなら、それぞれの局面において変化の根拠とされている参照点がそのつどばらつきがあり、そうした暗黙の複数の目的論図式においてはキメラ的な目的論の集合体が控えているような印象まで与えてしまう。
 さらに問題的なことに、契機的な系譜図モデルは、映画をその系譜図の周縁に位置づけてしまう、映画的効果という言葉で先に述べたように、映画の遍在性、映画の拡散性、それゆえの強力な作用をこうしたモデルは十分に説明できないままなのである。
 現在のメディア相互の交錯を自らの視座に入れるニューフィルムヒストリーは、複数のメディアが相互に並列し、あるいは重なり合いずれながら独立して作用を及ぼしあう様態をくみあげなければならない。そうでなければ無反省な因果的問題解決モデルとか、循環モデルに陥ってしまう。
 もちろんこういう警告は過剰に用心しすぎの印象を与えるかもしれない。事実、現在の視座はさまざまな映画の見方の変容をもたらしてきた。従来の作者や作品などのカテゴリーやそのほかの分類を、それは必然的に揺り動かしてきた。たとえば、映画館や上映実践についての研究がその一例としてあげることができる。作品でも作者でもなく上映環境を問題化する研究、しかし注意しなければならないのは、こうした受容の文脈は、一方で広範に浸透する映画的遍在性とその対立物である、パソコンなどの小さなウィンドウ環境との対立を見逃しがちだということだ。
 第二に、リアリズムの概念もシャッフルさせられている。しばしば映画の言説において目的論とされたこの概念を据え、単純に進化論的な系譜を語る図式は不十分になる。ここで重要なのは、リアリズム、真正性、現実指示性、インデックス性、メディアの透明性といわれる映像と現実の関係をめぐる言葉が地すべりをおこしているということである。またそこには、事後性、つまり後のメディアが生じてはじめて明らかになる以前のメディアの特性の顕在化という事態が関わってくる。だからドキュメンタリーという概念、そして前衛と虚構、幻想とリアリズムという区分はそうしたシャッフリングを考慮に入れた上で考察の対象としなければならない。
 第三に、作者や作品の概念の揺動がある。現在、物語や作品というよりは世界やイベントとして、作者や作家というよりは、システムや作家性の指標やイメージのエンジニアとして作者はある。『スターウォーズ』や『ロードオブザリング』を見ればそうしたことは容易に理解できよう。
 私の記憶が確かならば、かつてマノヴィッチは理論は実践の埋葬作業だと言った。つまり、映画史という理論は、かつての崩壊してしまった諸区別を遡行的に掘り返し復活させる墓堀=ゾンビ化作業であると言うこともできる。さらに言えば、現在の「諸メディアの収斂」といういかにも口当たりのよい語り方をされているやりかたは、実は不可避的な運命なぞというよりも、本人も認めがたい恐怖に駆り立てられ、ひたすら墓堀をし、それを復活させ、保存させようとする、一面でノスタルジー的で一面で喪失の恐怖のあまりの半ば狂乱的な作業なのかもしれない。

 これが今週分。ま、エルセサーの思考ノートのような論なので、この調子で議論はさらに続く。続きはまた来週。

 で、以上の主張は、写真についてもほぼ当てはまる。写真のインデックス性がとやかく言われはじめたのは、ある意味で、ポスト写真的メディアゆえの遡及作用以来のことである。だから映像の存在論も、その存在や真正性が言説のあいだでどのように遡及的に構成されたのかを少し考えないとならない、ということになる。

 これは感想。