終了、交通とアーカイヴ

■研究会終了
昨日は一日研究会カント特集。予想外に多くのひとたちに来てもらい、感謝しきり。
どちらの発表も、現在からはじめ、過去に遡行し、そのうえでもう一度現在にもどって来る部分があればもっと挑発的な内容になったと思う。それは、長めにとった質疑応答時間でも問いとして出ていたので、ま、いいでしょう。とはいえ、若い院生や研究者が学会と仲間内読書会のちょうど中間的場所であれこれ言い合うのは、こういう予算のこういう枠組みのありうべき使い方だと思う。

次は下旬に初期映画上映+ディスカッション大会をします。

■交通からアーカイヴへ
というわけでようやく原稿に戻る。
セクーラ「写真における交通」の「交通」が意味しているのは、第一に、写真が商品生産と交換を特徴とした資本主義社会においてこうむる生産、流通、分配のことを指し、第二に、二種類の近代の言説のあいだを行き来する写真のありかたを暗示し、さらに、美的言説であれ実証主義的言説であれ、写真がこうむっているある抽象的交換の論理(第一の交通)を、そしてその論理をはみ出すための実践を含意していることになる。もちろんこの論考は第二の交通までをひとしきり論じて終了するのではあるが。最後のオリヴァー・ウェンデル・ホームズの通貨としての写真という概念を論じた箇所が、次のアーカイヴ論とのつなぎになる。

で、セクーラのアーカイヴ概念が出てくる論考に進む。「身体とアーカイヴ」の面白さは一見すると、犯罪学や犯罪捜査学における写真の用法の討究にあると思われている。しかし、それ以外にもアーカイヴという概念の提示、そして犯罪捜査学や優生学における写真の用法から写真家とアーカイヴの関係へと考察が進んでいくところにある。
つづきは明日。