判定過剰報道

 一瞬暇だったのだけれども、学会Aと学会Bの編集をしているので投稿論文のプリントアウトひとしきり。こういう紙代とインク代の多いこと。予算は出るわけがない。

■マンガ
ぼくんち―スピリッツとりあたまコミックス (1)
たまたま借りてきた本のなかにあったので読む。なるほどこれで西原ワールドに入るのか。。。投げっぱなしのようにみえる着地のところがことごとく丁寧な構成。段ボールがクッションがわりの両腕ロックジャーマンといえばいいだろうか。

レベルE (上) (集英社文庫(コミック版))
久々に文庫版を購入して読む。文庫化されると絵として抜いている部分が分かりにくくなるのは確か。「ハネムーン」の最後の章の擬態音はほぼウメズ的。夏にウメズ論を書かねばならないのでメモ。

■判定報道過剰
 入試関連の続報を聞き、相変わらず頭が痛い。京芸では携帯を封筒に入れる様式になったらしい。ほとんどマリックのハンドパワー段取りの世界のごとしである。ならばもう金属探知機でも設置したらどうなのか。
 これは試験する方にも試験される方にも大部分無意味で迷惑なこと。試験答案というのはある意味で「よい」ゆるさ=余白=判断の可能性がないとだめなのだが(それは森毅の本を読めばよい)、それが、まったく別のゆるいモチヴェーションゆえに起こされた変な判定過剰さによって耐えられない厳格さをもたらしかねない。そういう余剰とゆるさの自覚がない関係機関の対応や報道ぶりに唖然としている。だから頭が痛い。

ブルデュー
 今年度もう一本の仕事を考えはじめる。ブルデューの『写真論』って誰もきちんと考えていない。しかもこの邦訳書自体が不親切な位置に不親切に位置しようとしている。これが気に入らないので依頼を受けたときに書こうと思ってしまったのであった。今日はSociological Anthropology Reviewの
ゴンザレス氏のブルデューの写真論を現在見るを読む。それは現在読めば古い写真論と言われてもしょうがない議論だというのは分かるけど発展性がない。