拡張論文3

サブカルという日本語
 サブカルという「日本語」が言説および言説イメージと、対象と、それにかかわる行為や行動の間でその意味合いが行き来して、学生さんの間で焦点を結ばないというのも、この間の研究会の議論の問題。もうひとつは、(非)コミュニケーションや(非)コミュニティの原理的問題をたてないと、どうしても族に引き戻されてしまうという問題。さらに、メディア芸術の際の話ではないけれど、80年代よりももっとさかのぼった文化の話をしないと、話が小さすぎるという問題。どうでもいいがこういう問題が前回書いた研究会で少しだけ苛立った問題群。それはこれから考える。

■業務
 朝映画の基礎文法を話し、午後マイノリティリポートのポストノワール的父の入口まで話をし、最後は宮崎論2本について話して終了。
 長谷論文と齋藤論文はつながるところがあって面白い。稀有な論文2本。その議論のなかにはアクロバティックな突破の部分もあるけれどその突破の勢いの理由は読めば分かる。もちろん、トトロや神隠しやポニョのなかに失敗して溶解する「機械」や「環境」を「表層」で見たうえでそれがどこにどうつなげられるのか(否か)という可能性は保留しておくし、斎藤氏のハイコンテクスト話はもう少し複雑にできて捻じることはできるという可能性も留保したうえで読んでいる。とはいえ適切なアニメーション論。次回は初期アニメーションを扱った今井論文の入り口まで進む。

■拡張論文3
 写真という対象を再構築すること、これが25年前にクラウスが「拡張された場」論文で彫刻に関して行った批評的実践であった。しかしこの拡張の図式は写真がその間に被った変容を捉えるために用いられてはいない。この、拡張された写真の地図作成、それがいま必要な批評である。
 ではどのようにしてその地図作成は可能なのか。写真は彫刻ほどにはスムーズにある種の構造的秩序やそれをもとにした分析にしたがわないかもしれない。振り返ってみれば、写真はそうした手に負えなさを印づける数々の一連の対立によって言い表わされてきた。たとえば、存在論と社会的用法、芸術と技術、外示と共示、プンクトゥムとストゥディウム、言説とドキュメント(ブクロー)、労働と資本(セクーラ)、インデックスとイコン、シークエンスとシリーズ、アーカイヴと芸術写真などの対立がそうした数例である。
 ここでベイカーは、以前発表したザンダーに関する自身の論文に立ち返る。そこでは物語性と静止という二項対立が、先の数多くの二項対立を包括すべく構想されていた。ベイカーはこう仮定する、ザンダーが活動した時期までに、社会的用法をともなう写真はある種の言説性と不可分のものになっていた。つまり、写真へのキャプションづけ、写真アーカイヴの作成、現実参照性の前景化、シークエンスやシリーズへの写真の組織化など、写真を、従来その特質とされていた石化や静止性に抗する特性、物語性や言説性へひきつけていく力学が生じていた。写真は、ある種の運動と石化という効果、そして時空間的次元における矛盾を保持するメディウムとなっていた。
 ノイエザッハリッヒカイトの美学内部にひとまず位置したザンダーの写真には、こうした静止性と物語性の対立は不可避的に生じている。肖像写真のアーカイヴ的集積による物語的次元とその同一フォーマットによる反復性がそれにあたる。それは古くからある文学的ノイズではない。むしろ20世紀初頭以来、写真が抱え込んだ矛盾、宙づり状態なのである。このことはバルトの映画的なものと写真的なものをめぐる議論にも顕著に表れている。
 この分裂は、モダニズム写真全体、前衛であれ保守であれ、いずれにもあてはまる。それは、ロトチェンコであれ、エヴァンスであれ、その写真全体を構造化する条件である。ベイカーはこの写真のモダニズム的用法(写真のレトリック)を二重否定で言い直す。つまり、モダニズム写真は静止でもない/物語性でもないという否定である。写真は非物語と非静止という二つの機能のあいだに宙づりにされている。しかもこの分裂は写真の意味(外示/共示)にも深くかかわっている。ともかく、クラウスの拡張された場の図式にあった非建築と非風景の場所にベイカーはこの二つをまず据えるのである。