sabukaru等

サブカル科研
今日はマンガミュージアムサブカル科研。
サブカルチャーという語の欧米での成立過程とその後のポストサブカルチャー研究の展開、そして日本でのサブカルという語彙の再帰的で流用的で実に捻じれた展開の話を聞く。一面ではいろいろな文献が紹介されて勉強になる。
 たとえば、ヘブディッジにいたるまでの分析概念としてのサブカルチャーの生成過程はすでに紹介されているが、Muggleton以降のポストサブカルチャー研究は未見だった。
Inside Subculture: The Postmodern Meaning of Style (Dress, Body, Culture Series)After Subculture: Critical Studies in Contemporary Youth CultureThe Post-subcultures Reader
どうやら分析の焦点の軸が、受容における消費の快楽やコミュニティに移行し、複数のサブカルチャー相互の交錯や拮抗が前景化されているようだ。
 また、第二点として分析概念からfolk conceptへのシフトも重要。一時的に準拠枠として用いられる普通の人々の反応パターンの一部にまでなったサブカルチャーという語彙。
 第三に今日の議論で分かったのは、日本のサブカルを議論する場合、そのハイブロウな視点からの高級以外の文化への視座、その理論的言説の、対象への再帰的な浸透がそもそもサブカルという語の生成過程には伴っているということ。同時に、その過程を経済的に無視できないと見る諸制度機関もそうしたサブカル語を下敷きにしているという事態も、分かりにくさと捻じれの要因であるだろう。そして現在の日本の「サブカル」というパッケージングは、内外の差異化の戦略として空虚な指標としてたてられたものであり、都合よくありとあらゆる要素が放り込まれる鞄語に近いということも至極納得。
 サブカルとおたくの対立も参加した学生さんの議論を聞いていて或る程度わかった。求心的というよりも遠心的に、ある種メタ的な言説を介して対象にアプローチし、しかもひとつの対象というよりは複数の対象からなるレパートリーに一時的にそのつど選択的にアクセスし、そのアクセスの強調点が従来のポイントよりも遠心的であり、それゆえにこそ他者との差異をラベルとして主張するような、そうした行動様式が前者の語で指し示されている。
 もうひとつ、難波さんの「族」から「系」という概念の立て方も興味深かった。
族の系譜学―ユース・サブカルチャーズの戦後史
 系以降の快楽のありかた、共同体や志向の散漫な分裂性、その強度はどのようにしたら批判的になりうるのか、なりえないのか、そういうことが読みとった課題。
 他いろいろあるけれどここまでが簡単な今日の感想。

■五人五色展

 帰りに同ミュージアムの「五人五色展」なるものをざっと見る。精華大のマンガ研究科による催し。マンガをマンガ媒体でない立体的展示で見せる5つの試み。内容ではさそうあきらの『富士山』に関心を覚え、形式では竹宮『風と木の詩』の流麗さにたじろぐ、でも右回りでなく左回りにすべきだし、もっと広いスペースがとれるのなら重ねゴマを本当に立体にしてみると変になって面白そうな気がした。

■拡張論文2
 かつて写真は芸術に対する「理論的対象」となり、そのさまざまなパラメーターを有益なものとして提起した。たとえばコピーという写真的論理に芸術作品が包含されることで引き起こされること、著者性や様式という規範的概念に対する写真の反抗性、写真がすでに大衆文化の内部に埋め込まれていること、写真の現実参照性などがそれであり、こうしたパラメーターによって芸術が基づいていた美的自律性に刺し穴をあけることにもなった。
 もちろん振り返ってみれば、こうしたポストモダン期の写真のある種の高まりは、写真の終焉間際の断末魔であったとも言うことができる。現代美術において、かつて生起した写真(論)的転回は、今では映画(論)的転回へと移行しているように思える。
 クラウスのあの論文から20年を経てどのような現象が写真において生じているのか。現代美術における写真は、理論的対象として保持されるというよりもむしろ、まずは放棄され、立ち退かされたものとみなされている。そのうえで、写真による伝統的芸術メディアへの捻じれた復讐であるジェフ・ウォールの一連の作品があり、アンドレアス・グルスキーのようなデジタル技術を介した奇妙な美的実践は理解することができる。
 彼らよりも若い世代においては、さらに顕著な徴候が見受けられる。それは、20年前のように写真が芸術を含む諸文化的実践を中継する媒体となるのではなく、むしろ写真が他の文化的形式へと組み込まれる、あるいはヴィデオなどの別の展示形式と並置されるためのひとまずの別の記録メディアに移行する間の対象と見なされているということである。フィリップ=ロルカ・デコルシアであれ、トーマス・デマンドであれ、ダイクストラであれ、写真にヴィデオ的プロジェクションを並置している点でこうした潮流の典型とみなすことができる。
 しかしベイカーは、こうした現象とは少々異なる視角を採る。冒頭で提示されたダヴェンポート《ウィークエンド・キャンパス》から彼が現在の美術における写真にみてとるのは、写真が写真と映画双方に、静止と運動にひきさかれている状況、両者間での非決定性のしゃっくりのような断続的痙攣のような発作的様態なのである。写真はもはや美的形式のうえでも最新の技術的文脈のうえでも重要なものには思えない。しかし、写真的なものがこうした拡張した場において潜在的に再構築されつつあると見なすこともできるのである。
 それではこの写真の再構築をどのように考えればよいのか。