この間、仕事の山をこなしていた。
前期授業は来週水曜でようやく終わる。拡張論文の紹介はもう少ししてから書きます。

・捕捉
 教養の授業で最後に紹介した本はこれ。
記号の知/メディアの知―日常生活批判のためのレッスンメタファー思考 (講談社現代新書)
さらに、視覚的隠喩についての議論はこれも参照してほしい。
イメージの修辞学―ことばと形象の交叉
 最初に挙げた本のCMの章。「誰それがCMに出ている」から「誰それがCMをやっている」への推移、スターからタレントへ、スターの意味の転移からタレントのパーソナリティのさえずるコミュニケーション的呼びかけへの変化という話は分かる。だが、物語の二重化としてはもう壊れているCMや、タレント勢ぞろいのCMなど、この分析では扱いきれないタイプというのがもう少し考えてみたい素材。

・ホラー漫画
楳図とそれ以後を中心にホラー漫画の日本での登場と伝播について考えている。これは8月中〆切。まず、70年代の広範なオカルトブームから90年代のホラー衰退と復活の文脈を、映画と並行的に考える。
 また、アメコミでは50年代にあった規制コードの日本での有無。そして少女マンガ誌という媒体に掲載されたホラー漫画の受容の問題。スプラッター以降のホラー的なものの変化、その反省的媒体としてのホラーマンガについてもあれこれ考える。
 既存の楳図論については、高橋明彦氏のコマ割り論、川崎公平氏の「おろち」「神の左手悪魔の右手」論が優れたものだった。前者はマンガにおける時間の表現と恐怖の問題、後者は口のクロースアップによるマンガのフレーム自体の溶解の恐怖の問題が参考になる。ホラー漫画のコマの時間表現をいくつか分岐させて考えつつ、目と指についてさらにあれこれ文献をあさってみる。
 写真や映画とマンガとの共通点や差異も気になりはじめる。ホラー写真が三点認識的な、過剰な情報のインデックスから顔のイコンを読みとる怖さから複数のメディア・フレームの多重性の恐怖へと強調点を移動させたのなら、ホラーマンガは、怪物的幽霊的なものの造形的差異による、きわめて象徴的な怖さと、構図自体の布置によるこれもコード化された怖さと、あるいは眼差しの関係、つまりめくりにおける視線の切断と接続にあったとすれば、それが70年前後からどのように推移してきているのか、そしてイメージと言語の問題の問題(語りというフレーム、オノマトペの図柄との境界線)についても考えなければならない。

書きかけ