蝋人形の現在性

photographology2004-08-25

 書きたまったので、いちおう「蝋人形的なもの2」をphotographologyサイトのステレオダイアリにアップしておく。次のページを参照。
http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/stereodiary01-40.htm

 …しかしディオラマやパノラマに比して、蝋人形館が現在進行形で生き残っているのはなぜなのだろうか。それはたとえば蝋人形の面子の絶え間ない変化、他の娯楽施設(パノラマ、ジオラマ、映画、写真)の適用にあるのか、あるいはもっと本質主義的に、蝋人形的なものゆえなのだろうか。
 シュワルツは蝋人形の現存について次のように述べる。シネマトグラフの発明来、蝋人形館はその娯楽としての地位を脅かされ、部分的に映画を上映する空間も設けざるをえず、最終的には、映画館に改装する計画まであったものの、警察当局の不明瞭な決定によって偶然生き残ってしまったのだと。グレヴァンが純粋な映画館になりきれず、複数の見世物が何か並存して残ってしまっている統一性のない空間として残っているのはこうした偶然の理由からなのであろう。たしかにグレヴァンの中を現在歩くと、そうした数々の試みの残骸が壁や天井や床の模様から見て取ることができる。何かちぐはぐで消防法条例なぞにパスしそうにはない空間なのである。
 しかし興味深いのは、先にも述べた蝋人形のタブローものが、新聞雑誌の版画を模したものであったり、またこのタブローものをアクチュアリティものの映画が模していたという間メディア性がここにはあるという意見である。つまり現実の表象を見るための枠組みがこうしたいくつかのメディアで交換されつつ形成されていたのではないか。そんな意味で、グレヴァンの雑種性は議論できるのかもしれない。


今日の一枚は、鏡台の鏡大のダゲレオタイプ。左下のケースが手のひらサイズというところからその巨大さは分かる。