箒とランターン

photographology2004-11-22

 昨日に続き写真図版の議論。フランシス・フリス、ジュリア・マーガレット・キャメロン、アンナ・アトキンス、トルボット、ダーウィンそれぞれの書物に挿入された写真図版を考える。例えば、フリスは『エジプト…』と『Hyperon』の挿図というドキュメントとフィクションにおける写真の用法の証明的枠組みを、キャメロンは叙事詩につけたあの写真の挿図的側面と写真入り出版物の商業化への抵抗を、アトキンスは科学的イメージとしての写真に伴う言説との摩擦を…という具合に個別の事例が実証主義的な言説の文脈と写真図版の規準化との関係が依然として不安定な状態にあったことの証言となる。
 ついでにWeaverの「カメラを持ったディオゲネス」を読み進める。トルボットのあの有名な箒の立てかけられた「開け放たれた戸」の写真に、なぜ箒とランターンが写りこんでいるのか等という問題、それがイコノロジー的な観点から解説される。でもそれだけだと「へぇ」でしかない。
 以前、写真史のメーリングリストで彼の写真をめぐって写真史家のあいだで論争が起きたことを思い出す。作例は別であったが、たんなる試し撮りにすぎないものに記号的意味を読み込むことに拒否反応を示した写真史研究者に、バッチェンが懇切丁寧に話をしていたのだが、しまいに激昂してしまったという一件であった。
 Weaverの論文が重要なのは、それが記号的解釈とかイコノロジー的解釈だからというよりも、むしろ写真という媒質が当時の知的文脈の中でどのように理解されていたかを汲みとるうえで、トルボットが属していた知的文脈と写真の被写体の問題との関係の検討が不可避だということを確認させてくれるからである。