自然の鉛筆論 その1

photographology2004-11-23

 トルボットの『自然の鉛筆』は、1844年6月から46年8月までに6分冊の形で出版された。24枚のカロタイプがページに貼付される方式で挿入されている――写真図版の数は第一巻が五、第二巻七、第三巻三、第四巻三、第五巻三、第六巻三である――。現在の感覚からすれば、『週刊何とか百科』のような廉価で大量に印刷された初の写真集という印象を受けるが、実はもともと印刷された部数がきわめて少なく、第一分冊は300部以下、第二分冊はその半分以下であったという。残る巻もおそらくさらに数の少ないものであったのだろう。装丁も豪華で限られた読者層へ向けて出版された限定版という性格が強かったのかもしれない。その読者層とはおそらく彼同様に幅広い教養と知識を備えたアマチュア科学者や文学者たちのサークルであったのだろう。
 ところで、この写真集には写真図版ばかりでなく、序文にあたるテクスト以外に、それぞれの図版にテクストがつけられている。以前にも書いたがこのテクストと図版との関係はしばしばちぐはぐであり、テクストの内容自体、撮影の簡単な指示にすぎないとか、ただの思いつきや連想にすぎないものとみなされがちであった。しかし、図版の順番は保留しておくとしても、そのテクストを読み進めていると、ある意味で写真図版と書物ないしはテクストとの緊張した関係が明らかになってくるような気がする。
 例えば『オックスフォード、クィーンズ・カレッジ』につけられたテクストを読んでみると(訳文はいずれ本サイトに掲載予定)、テクストはまず写真を通り越して、「時間と天候」によって老朽化した左右の建物のファサードの表面の肌理へ視線を導き、その後、いったん仕切りなおして、撮影の場所と時刻を明確に述べ、画面中央の細い通りへ視線を誘導し、軽く左に折れるポイントにある教会の歴史的由来に触れつつ、通りの先にある写真上では目にできないニュー・カレッジへ導いていく。
 写真という表面ではなく時間と天候の印としての壁面が強調される。実際写真の前景はその多くをファサードに占められ(左半分と右は僅かに)、必然的に観者は画面と平行なこの表面に目を這わせることになる。ところが次の一文では写真を通して眺められる光景へと読者の視点が切り替えられ、視線は写真を介して影のかかった細い通りを奥へと引き込まれることになる。その先にある教会を経由して目に見ることのない来歴を語られ、その見えない終点に言及されることとなる。ここには2種類の視線の様態が何気なく呈示されている。表面としての壁面=写真(インデックス)への視線とヴュ(パースペクティヴ)としての写真への視線。これが2枚目のパリの大通りの写真でも繰り返されることとなる。このことは意外に重要である。なにせ序文にはカメラを用いた写真とフォトグラム(といってもいいだろうか)写真との対比が内容として含まれているからである。
 とりあえず1枚目終了。このまま24枚語ることにしよう。1日1枚。

 …面白いことに『自然の鉛筆』の図版を見ていると焼付けの差異が大きく、右側の建物のファサードがもう少し面積を占めているバージョンもあるということである。ダゲレオタイプとは対照的に複製性への道で語られることの多いカロタイプであるが実はこうした差異の占める比重は大きい。これはまたの話にとっておく。