自然の鉛筆論 その2

photographology2004-11-24

 1枚目で書き忘れたがオックスフォードという場所も序文との関連性を取る必要がある。これはプレテクストの問題で後回し。

『自然の鉛筆』2枚目(ウェブでは右記を参照。http://www.getty.edu/art/collections/objects/oz46633.html)。パリの大通りの俯瞰写真である。明らかにこれはダゲールのパリの写真(靴磨きだけが露光時間の関係上定着しているあの写真⇒  )との競合関係を想起させる。
 ここにつけられたテクストは次のような軌道を辿る。
 1枚目のテクストとは違い、最初から撮影の場所と方角が明示され、すぐさま左正面の陰に沈んだ建物のファサードへと視線は導かれていく、もはや日は傾き、ファサードの列柱のもとを日の光は立ち去ろうとしている、しかしそのファサードの中にひとつだけ開け放たれたシャッター(鎧戸)があることにトルボットは着目する。
 その直後、再び天候へと話が振られ、ファサードの手前の道路へと視線は誘導される。路上についている2つの筋は水を撒いた痕跡である、と軌跡の原因を彼は導き出すのである。さらには路肩に停められた馬車の列に話は及び、前景の街路樹ごしに見える孤立した一台の馬車へと進んでいく。やがて話題は地平線に接している煙突の群れに向かい、写真は選択なしにすべてを列挙的に写しとめるという写真の特性が触れられ、話は1枚目と同じように終了するかと思える。ところが、最後の数行で視点は手元に引き戻され、右前景の住居のファサードでとどまり締めくくられる。
 こうしたテクストと照らし合わせてみて興味深いのは次のような点である。
 まず、左下から右奥を迂回して左上へと向かう運動、いわばヴュの観点で切り出される点。たしかに北東に向かい俯瞰で撮影された対角線構図の写真は必然的にそうした軌道を辿らせることになる。
 次に重要なのは、陰と光が話題の中心のひとつとなっている点である。実際、北東を向いて撮影されたこの写真は、光と陰の面を交互に反復している。そしてその陰にすっかり包まれようとしている壁面、そこに最後の光を捉えようと開け放たれたシャッター=鎧戸の面だけが際立たせられる。時間の経過とそれを引きとめようとする開口部、これは写真を暗に意味していると読むこともできる。開け放たれたシャッターは私たちが大通りを見ている当の窓、いや開け放たれた窓から外を見るかのごとく写真を見ている読者の立脚点にも繋がっていくのかもしれない。
 さらに重要なのは、道路上の痕跡に話が及んでいることである。ヴュで導いてヴュを捉える窓を経てダイレクトな痕跡の因果的推測が始まる。そして視線は奥へ引き込まれ、地平線という見晴らしを締めくくる地点へと辿りつくやいなや非選択性というこれもヴュとはいくぶん拮抗する側面が挿入され、すぐに手前に引き戻されてヴュの視点が強調される。
 1枚目と2枚目のテクストの展開は少々異なるかもしれないが、どちらにも指摘できることは、パースペクティヴへと引き込む動きと痕跡や表面へ留まる動きである。この2枚が冒頭にあることの意味は、次の1組の写真へとページが進むことでさらに明らかになるのかもしれない。


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