自然の鉛筆論3

photographology2004-11-25

 3枚目。先ほどの2枚との違いは明らかである。それは食器を収める棚を正面から、画面いっぱいに写し入れた写真であり、それはまるでそれ自身がガラスケースであるかのような印象を与える。画面を水平に横切る棚の上に陶器はほぼ左右対称になるように配置される。こうした食器および棚は、トルボットの邸宅であったレイコック・アビイの2階の回廊に(記憶は定かではないが)東向きに置かれている。プランもここに載せておこう(⇒)。
 この写真につけられたテキストは、一見すると写真そのものとは無関係な記述で始まる。
 それは、次のようなものである。こうした収集品を手書きで書き出すよりも、写真は迅速にコレクション全体を紙のうえに描き出し、奇妙で幻想的な形状の食器を言葉で記述するよりも多くの利点を具えているのである、と。だから写真はコレクションが盗難にあった場合の証言となり、法的な判断の際には有用となる可能性もある――もちろんその是非は専門家に判断をゆずると留保がある――。ここでは写真の非選択的な列挙性が指摘され後半の話へ移行する。
 コメントの後半は、カメラ=道具としての目というアナロジーである。正確に言えばレンズは目に、感光紙は網膜に、絞りは瞳孔に準えられる。口径を絞るほど露光時間は長引くが、鮮鋭な像が得られるのである。
 ここでのポイントは、証明としての写真の機能への言及、カメラの目と人間の目のアナロジーである。この図版はおそらくそうした手続きの見本という性格を担わされていると読むことができる。
 この道具としての目という表現は、後で触れるが書棚を撮影した同様の写真についてのテクストでも見出される。未見ではあるがこの表現は、当時の自然哲学においてよく用いられた言い回しであるようだ。つまり、道具立てについて述べられていることは、同様に主体による認識についても言われていると見なすこともできる。口径の話で触れられている事柄は、逆に明晰な像を得るための手引きとして逆に読むことができるかもしれない。前半の件である証明的機能も、写真の使用法という意味とともにそうした第二の意味を具えている可能性がある。これはさらに後に確認していく。
 以上3枚目。