私写真?

 トルボットのメモは前日分で書き上げる予定。暫しお待ちあれ。

 写真集論を考えていると、やはりアルバム論に目が行き、しまいには私写真論までが芋づる式にくっついてくる。飯沢氏は自然の鉛筆を私写真的なものと見なしている。たしかに写真が本来的に私写真であるという主張は分かる。撮影にはつねに私と被写体の関係が何らかの形で滲み出してしまうからである。しかし、『自然の鉛筆』に、「私的な眼差し」に貫かれた「日常的な親しい出来事の場面」の不思議な魅力と現実世界の精密な記録の機械的複写能力の証左の混在という分裂した萌芽的で混沌とした状況を確認するだけでは、何か物足りない気がする。これを引っかかりにしていく。
 ここに自然の鉛筆についてのメモを挙げていくのはこうした理由もある。