タルボマニア垂涎の

 引き続き論文書き。
 『自然の鉛筆』論。写真集としての位置づけの微妙さについての説やシャーフの未完の芸術家説を叩き台にして、別のトルボット像を現像する試みになる。それはネガ〔ティヴ〕をポジ〔ティヴ〕へと反転する説明ではなく、ネガをネガのままで見るような試みと言い換えてしまえるかもしれない。実際トルボットはネガで充分とみなしていたような資料もある。
 今日は何とか序文にあった「fairy picture」から展開されうる軌道をまとめてしまおうと思う。目のなかの幽霊的な像の重なりを手にしようという欲望について考える。伏した眼のなかで目の前の光景と手元の白い面が重なり合い、それに手を合わせるというカメラ・ルシーダの奇怪な目と手の乖離。
 トルボットが写真集に載せたパトロクロスの像について考えてしまう。そもそもがローマン・コピーにすぎない彫像をトルボットが後生大事にディスプレイし、レイコックの倉庫に埋もれて再発見された彫像、その現物は今でもロンドンにあるし、御土産物としてそのコピーは容易に手に入ってしまう彫像。空港にある美術館の出張所でも購入可能らしいのである。タルボタイプならぬタルボマニアならばぜひ手に入れたい一品。