ミドルさと泣けるについて

■ミドルさについて
…しつこいけれど、それはチャランポランの自己言及的なあり方――チュウトハンパを折り返すあり方――とも違う。また、さまぁーずは、「座りトーク」全盛期のよくある番組の中で座りであがった気になっているコンビでもない。彼らの内Pでの座りの悪さは何なのか。つねに彼らは中腰的である。それゆえにこそ内Pはもっているのかもしれない。あるいは彼らのボケツッコミは、爆笑問題のそれのように明確な意味を分かっていながら迂回して逢着するという経路もとらない。彼らにはたどり着く明確な意味はない。三村のつっこみは、意味のズレなどにはお構いなく、ただつっこみの勢いと繰り返ししか果たしていない。大竹のボケはつっこまれなくても延々と続く。司会もたぶんできない。コーナーのしきりがせいぜいである。この中途なありかたが最近面白すぎて少しでも眼の端に入ると気になって見てしまう。もっと書きたいところだが、ここらへんにしておく。

■仕事
 書評仕事の映画論を読む。『二十四の瞳』論。作家主義の圏域で紡がれていながらところどころほつれを見せている言説の揺れを丁寧に抑える過程が興味深い。まだ読みすすめる。
 
■泣ける笑えるを考える
 その論集の序文の長谷氏の文章にも指摘があったが、最近の映画の広報において使用されている上映後の観客たちの「感動しました」とか「泣ける」とかいうあの呼びかけ映像は何なのだろうと常々思っていた。批評の空洞化の傾向と表裏の関係にあるこの自発性を装った呼びかけは、映画に対する批評的言説が弱まり、個別な主体が開き直ってすべての文脈を欠いたまま自分の趣味をあからさまに肯定する――その支えは感動する自分にある、これには文句のつけようがないであろうという開き直り――ニュアンスが強く、私はいつも不快に思っていた。ちなみにおすぎのあの「感動しました」も批評ではなくその呼び水的な、こういってよければ「泣き女」的言辞にすぎない。しかしこの呼びかけがなぜ今でも有効なのかを明らかにするには、かつての呼びかけ全盛の時代とは異なる分析やスタンスが必要な気がする。笑えるも同様。主体が相互に距離を隔てて互いの趣味を個別に勝手に浅く深めて終了するこの繰り返しは何なのか。この現象自体が分析の対象になると思う。