表象不可能性の表象をめぐるこわばりを

 雑用。学会仕事と大学仕事。少し切れかけの日常。

 さて昨日の続き。この映画に関しては次のような受容の力学が働いた。それは二元的対立によって要約することができる。『シンドラー』を『ショアー』に対立させ、後者が表象不可能なものを表象する問題に対して倫理的姿勢を貫いたのに対し、前者は文字通りの表象に歴史的外部の単独的出来事を従わせ、生き残ったものによる代理表象を行っているという批判が向けられた。表象なき表象、あるいはイメージなきイメージという否定性に貫かれた後者を擁護する批判的知識人たちは、前者が技法のうえで古典的ハリウッド映画に従い、それが文化産業的な物象化にすぎず、物語を語る主観的視点――それは非ユダヤ人であるシンドラーとゲートである――に問題があり、ドキュメンタリーならぬフィクションという形式を選択していることに批判を向ける。しかしこのこわばりを解くためにハンセンは、アメリカで起きた『シンドラー』の大衆的受容を睨みながら、次のような戦略的介入を行うのである。(つづく)