戸を開くこと

 この写真は『自然の鉛筆』のなかでも言及されることが多い。
 以前アメリカの写真史メーリング・リストでもこうした初期写真をめぐって論争になっていた。
 こうした写真における被写体の配置などについて、一般的に、周囲にあった何気ない事物を任意に撮影したのだろうという意見がある。
 もちろん、シャーフが挙げた「習作」的プリントを一覧すれば、そんなことはないのであり、むしろこの写真が周到な配置の試行に基づく結果であることは明らかである。
 さらに言えば、シャーフ、そしてウィーヴァーは、昨日書いたような構図の見事さを指摘するだけではない。彼ら、とくに後者は、配置された事物の象徴的な意味を読み出すのである。例えば、トルボットは自身の邸宅の入り口ホールにあるいくつものテラコッタ像のなかでランタンを手にしたディオゲネス像を繰り返し撮影している。ディオゲネスは18世紀末には啓蒙思想と結びつけられていた。つまりランタンと奥に控える薄暗い室内は、この文脈から読み取られることになる。さらに別の秘教的伝統からは、暗い部屋が瞑想を行う場所と見なされていたことが指摘される。そして、戸に掛かった手綱は理性の統御を、戸口を掃き清める箒は理性による反省の場を保つ意味合いを担う…。トルボットのさまざまな分野に跨る研究歴を前提にすれば、こうした読みもあながち深読みとして切り捨ててしまうことはできない。

 ただし、ウィーヴァーは写真を絵画的コードと結びつけるばかりで、それが写真であり、写真集の一枚であることにあまり注意を喚起していない。
 例えば、トルボットや写真についてそれほど知識がなくても、この写真集を開けば、その第二巻の始まりに《開いた戸》があり、写真集自体の入り口としての役割を果たしているということは明らかなのではないだろうか。本を開き、壁面に視線を這わせながらも室内へと引き込む、その奥には格子窓がある。ウィーヴァーの読みにこうした読み方を加えてみることにする。

ジェフリーの読みについてもまた少し検討を加えてみなければならない。
それはまた明日ということで。