拡がる染みとしての写真


 引き続き翻訳校正作業。シャーカフスキーの言い回しの癖がどうにも厄介である。
 とりあえず「物そのもの」から「ディテイル」「フレーム」、「時間」を経て、「ヴァンテージ・ポイント〔写真的視点とでも訳すべきか〕」にたどり着く。もう少し直しを繰り返してみる。どことなく面白かったのは写真史についてのくだり。だいぶん意訳すると…
 写真の歴史は成長というよりもある種の旅の行程のようなものである。しかもその軌跡は直線的でとぎれのないものというよりは、遠心的なものである。写真、および写真についての私たちの理解は、まるで紙に「写真」という一滴の水滴を落としてそこから染み出していくかのように拡がってきている。一滴の水、つまり写真全体は与えられ、それがじわじわと浸透していく様子、写真史というのは、この全体を次々と見いだしていくことにあるのだ。
もちろんこの浸透モデルを還元的なモデルと受け取ってしまってもよいのではあるが。 


■空港もの
 映画『ターミナル』を見てしまい、案の定納得がいかず、速攻でもとの『パリ空港の人々』を注文してしまう。空港から出てしまうととたんに空港もの映画は失速する。空港もの映画をあさる。
書きかけ