手に負えない確からしさ

■学会
 幸い晴天のパノラマ日和の学会。以下覚書。

 いちおう当日の実行委員長なので、あわただしく発表を聞きつつ諸々の世話にあたる。そんなこともあって、部分的にしか聞いていないからどうなのか分からないけれども、ひとつめの発表はフィードラーの発表で、ふたつめの発表はケージをベルクソンをものさしに議論する発表であった。それはたぶん確からしい。
 前者は、純粋可視性ではおさまらないフィードラーの言説を手と表現に振り、後者は不確定性の実践をベルクソンの理論――いまひとつどの時期のベルクソンなのかは分からないが――を参照することでその有効性くみ出そうという主旨だと思う。
 疑問に思ったのは、前者については、手が終着点となっているはずの議論が、手の厄介さを全く議論していない点であり、後者については、不確定性のメスがどこに入るのかがまったく確かに聞こえない点だった。
 いつも思うが、議論のスタンスのどこがアクチュアルなのかがよく分からないことが多い。
 手の問題は、むしろ目と手の分裂的な状況が前提にあり――ヒルデブラントやリーグルを見ればそれは明らかである――、なおかつ視覚と触覚を均質に論じる理論的平面があり――生理学的心理学とかはもう少し知るべきである――、そのうえで手(と眼の問題)が神経症的に議論されていたこととかは無視できないだろう。
 ケージの発表は、先細った切っ先で現在形の言説を反復しがちな現代音楽の言説に、タイムラグを持ち込んで華やかに展開するかと思いきや、そうでもないおとしになっていた。
 共通していたのは制作者の神話が厳然としてあり、それがもう少し狡猾に文脈崩しとして織り込めないものか、それが聞いていて残念だった。これは最近の美学の発表で、ある意味、確定的な部分になっており、それを私は厄介だと思ってしかたがない。
 手に負えない確からしさ、そんなふうにまとめておく。