「裸の俺を愛してください」

■格闘技を考えはじめる

テクノスタルジア―死とメディアの精神医学

テクノスタルジア―死とメディアの精神医学

格闘技論を探している。プロレス論も含めて。
香山のこの本には
「ジ・アンダーテイカーと死のプロレス」
「薔薇の香る暗闇に指を這わせるように レスラーの身体/伴侶の身体」
「究極の勝利の果て 「格闘」とは何か」
「プロレッスルする可能世界 バトルするバルト」
というプロレス論が収録。

プロレスファンという装置 (青弓社ライブラリー)

プロレスファンという装置 (青弓社ライブラリー)

これも知り合いから借りる。

香山の本を読んでいて少しぐっときたのが、次の一節である。
橋本真也の本の一節から始まる。

「果たして、自分を一人の男として、人間として好きになってくれたのか。それとも自分がプロレスラーだから好きになったのか」(橋本真也『裸の俺を愛してください』より)。ここだけ取り上げればありきたりの言葉に見えるが、一度は「見る・見られる」身体と化することを誓ったレスラーが、再び、「伴侶」としての身体に引き返す時の不安は、想像を絶するほどのものであろう。目の前の女性は、はたして「私のためだけには伴侶でいて」と強く思ってくれ続けるかどうか。レスラーにとって婚姻とは、存在論的な問題に直結する重大事である。

 以前、鬼嫁一家(北斗晶佐々木健介)がそれほどピックアップされていなかったとき、とあるバラエティ番組で寝室で寝ている健介にスタッフがカウントをとってそれで目を覚ますかという企画があった。案の定、彼はカウント2,5で起き上がった。たぶん橋本もそうだったろうし、他のレスラーも似たりよったりなのであろう。「裸の俺を愛してくれ」というステレオタイプ化さえした言葉がここでは無効になっている。レスラーの身体の強さと悲しさ、これは普通の身体論では片づけられない少しせつなくなる難問である。

後者の本はまた読んで感想をあげる。