チャック・ハムスター・フラジャイルの日

■かわいいの新定義?
という特集が組まれた雑誌ananをようやく入手。
 当然のことだけれども、現状を再生産しつつ消費の欲望を促すための差異化の戦略として、かわいいはヴァリエーションをつけられ、ありとあらゆるものに増殖していく。うまカワ、ゆるカワ、やじカワ、いなカワ、ぶさカワ、ふるカワ、きもカワ、こわカワ、かわいいの諸合成語への分岐。古さや懐かしさ、不快さやおぞましさ、それがかわいいとすりあわされる。ここにたぶん現在のかわいいのポイントはあるにちがいない。
 こわかわで挙げられている森チャックグルーミーhttp://www.chax.net/frameset.html)。Chaxをクリック。

■ハムスターのごとく
キャラクター論(『87%の日本人がキャラクターを好きな理由』)を読みおえる。
香山リカの次の言葉を参照。

「ハムスターくらいがちょうどいい、間違って呼ぶとこっちに来るぐらいのほうがいい…〔中略〕…コミュニケーションもハムスターサイズでないと耐えられなくなってきている」
「かつては、こちらがキャラクターに感情移入して、いわば観衆みたいな感じで自己投影していた。でも今は逆にキャラクターがこちらを見てくれている観衆で、自分がその中心にいるっていう関係。」

強い愛情や感情の相手でもなく、自己の投影のための媒体でもなく、何の物語も背負わず、無表情で空ろな目をして何も訴えかけず、わたしの周囲に居並んでただそこにいて、断続的に希薄な自足的コミュニケートの背景になる。かわいいものの視界に入っている程度の浅く見ている周囲の世界、そのごく薄くごく浅いかわいい地層の厚みのなかで、わたしは散発的に深いとぎれとぎれの反応を繰り返す。…この問題は身のまわりデジタル写真にも援用していこうと思う。
 と思い、『カメラ日和』『Loveカメラ』を立ち読みに行ったついでに
フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)美術手帖 2005年 12月号
を購入。後者には斉藤環氏の杉本論があり、ダンスをめぐる議論でこどもの身体が議論されていたため。