リアル顔面批評

■リアルな顔面批評
テレビ論の関連で少しだけ。
昨日『なるとも』という番組で、レポートされたダチョウの卵の目玉焼きを試食する際に某タレントが「「リアル」だから食べられない」と言っていた。それまでダチョウの生卵をたんたんと整然と割っていたのに、焼くとリアルだから食べられない。リアルすぎるではなくリアルだから食べられない。番組の中でリアルを都合10回は繰り返していた。
このリアルの用法。
リアルとフィクションの対立でのリアルではなく、むしろきもちわるいことがリアルと形容される。このリアルという語そのものがどうにも鈍くきもちわるい。

 では『リアルフェイス』の「リアル」はどうなのか。
 もちろんアイドルグループの歌詞なぞ、フィクショナルなものや商品の差異にすぎないと片づけてもいいのだけれど、Mステ等の歌番組でその歌詞を見る際、そのリアルの言葉尻があまりにもアンリアルにしか聞こえない。記号化の元であったリアルという担保が根こそぎになったあとで、単発的に発されるリアル、これもきもちがわるい。いわゆる上で言った「リアル」である。

昨日の長谷氏の議論にひっかけて言えば、

顔の問題はリアルさを遠ざけて記号化しているわけですが、同時に、実はありもしない本物の顔をどこかで作り出そうとしていると思うんです。ここ20年ほどで、顔は完全に記号化されました。…〔中略〕…だから、テレビはリアルさをフレーム化によって遠ざけながら、逆にそれを欲望もしているのです。

ついでにもうひとつ。

だから私たちは彼女〔ナンシー関〕の仕事を受け継ぎつつ、いまや「顔」自体がもっているリアルさと向き合わなければならないと思うのです。

ただし、、、この「顔」が古典的な問題構制(顔と身体、能動と受動)からはずれるものであることは確かだと思う。レヴィナスの顔についての論とか、他にもドゥルーズ=ガタリの顔貌性とか、ベンヤミンの死相とか、ごそごそと引き出してみる。
もちろん写真にもこの問題はかかわってくる。
以上気になったことのメモ。

■手のレクチャ
夕方からサードギャラリーのレクチャーへ。
手の写真の話は、指写真論を考えている人間にとっては聞きもらすわけにはいかない。
整理をすれば手と写真の問題は次のように整理することができる。
と書いたが燃料切れ。
これはまた明日。